雪の夜の再会




 プラットホームの静寂に、駅員のアナウンスが鳴り響く。
 ――最終電車信越本線、四十分遅れで長岡駅を発車致しました。到着までもうしばらくお待ちください。
 杉本(すぎもと)はホームの柱に寄りかかりながら、セブンスターを吹かした。
 煙草の淡く白い煙は暗闇へと立ち昇り、ゆっくりと落ちゆく鮮やかな白い雪とぶつかり合っては、通り過ぎる。
 今日は全国的に悪天候な一日であったらしい。
 東京では嵐のような強風被害が相次ぎ、そしてここ新潟でも大雪で新幹線やら電車やらが、三十分四十分の遅れ、中には運転見合わせを決め込まれているものまであった。
午後六時半発の東京新潟間の新幹線に乗って、新潟へと到着するつもりだったのに、東京を出たのが八時五十分。そして、新潟に着いたのが十時。
 仕方なく乗ろうとした終電も、「遅れております」ときた。杉本は、まるでこの地が自分の帰省を阻んでいるようで、若干の苛立ちと虚しさを覚える。
「俺を、嫌っているのかな」
 所在無く頭をおさえると、痛いと思えるまでの冷たさ。帽子にはうっすらと雪が積もっていた。

 新潟県新潟市。そこは、杉本の故郷だった。
 大学進学と共に上京して新潟を離れ、四年を経てそのまま東京の企業に就職。三年の間だけと約束されていたシンガポールへの転勤は、六年にも亘る結果になった。
 大学に在学していた時は、まだ新潟に帰る機会はあったものの、就職して一端のサラリーマンとなってはそれも叶わなかった。次から次へと手渡されていく仕事の束に、若い杉本は目が回るほどであった。
 もちろん、シンガポール――海を渡って東南アジアへと向かったあとでは、帰省などこれっぽっちも杉本の頭の中には無かった。
 
杉本は時計を見た。もう少しで、日付が変わる時刻だった。
 そして彼は、短くなった煙草を足元に積もった雪の中に放り投げ、それを踏んだ。
「煙草のポイ捨ては、いけませんよ」
 不意に隣からかけられた声。
 ビクリと肩を震わせない筈が無かった。自分がとてつもなく悪い事をしている気分になり、慌てて、雪の中へと潜ったフィルターを拾おうとした。
 しかし、私の手は止まった。その声の主が誰だか判別できたからであった。
「久しぶり。元気にしてた?」
 声の主は赤いコートで身を纏いながら、フードで頭を覆ってはいたものの、その顔には見覚えがあった。
「萌?」
 杉本が目を大きくして、隣の女性に指を差す。萌(もゆる)と呼ばれたその人はすぐに頷いた。畑奈萌(はたなもゆる)――杉本の小学校時代、そして中学校時代によく級友の関係になっていた。
 彼女は寒そうに両手を擦り合わせて、ちらりと杉本を見る。
「寒そうね」
「ずっと雪とは無縁のところにいたから」
杉本は昔の級友に、手を広げておどけて見せる。畑奈はくすりと笑った。
まさかこのようなところで昔の友人に逢おうとは。杉本も畑奈もそんな思いは共通していたようだった。
「それにしても、本当に久しぶりだな。何年間逢ってない?」
「私達が十五の頃だから……もう、十五年くらい。今まで生きてきた人生の半分」
「そうか」
 杉本は胸ポケットからセブンスターをもう一本取り出して、咥える。
「もう、煙草なんて吸うんだ」
「お互い三十だろ。当たり前じゃないか」
 杉本が眉を顰めると、ごめんと畑奈は彼の背中を叩いた。
 そこでまた暫く沈黙が生まれた。昔の友人であるとは言え、そんなに親しいわけでも無かったし、何より十五年の空白が杉本と畑奈の関係を、ますます疎遠にしていったからであった。
「あーあ、まだかな」
 そんな静寂をかき消したのは、畑奈だった。綺麗なソプラノボイスを夜空に響かせる。声の感じは小中学校時代とそう変わらないものだと、杉本は思う。
「ちょっと駅員に聞いてくるよ」
 杉本はすぐにそこから逃げ出したかった為に、改札口前の駅員に向かって走って行った。

 畑奈は小さく息をつく。彼女の温かな吐息は白く色づき、儚く消えていった。寒さのせいかは分からないが、畑奈にとって独りでいる時間はとても長く感じられた。鮮やかな赤のコートに積もる雪を手で振り払っては、じんじんと冷たくなった掌に息を打ちつけた。
「おまたせ」
 杉本は戻ってきた。もしかしたら、昔の友達と遭うという若干の気まずさに逃げてしまったのかと、彼に対して畑奈は疑ってしまったりもしたのだが。
 中学校の頃の杉本には、人見知りが特に顕著に表れていた。少なくとも、畑奈にはそう感じていた。常に小声で話しているというか、控えめであるといえば良いのか、周囲の環境に溶け込むのが上手な男子であったと記憶している。
 そう思う畑奈も、あまり対人関係は巧いものでは無かったのだが。
 杉本の両手には缶コーヒーが握られていた。一つを畑奈に手渡して、早々に残る一つに杉本は口をつけた。
「どうだった?」
 畑奈が首を傾げると、ようやく杉本の口から缶コーヒーの端が離された。
「一時間くらいは待たなきゃならないらしい。もしかしたら、運転は見合わせるかも知れないとも言っていたよ」
 畑奈は眉を顰めた。何かを考えているように杉本には見えた。
 ようやく、その考えは一つの結論に至ったのだろうか。畑奈は杉本の肩をぽんぽんと叩いて、
「じゃあもう今日は諦めて、お酒飲みに行かない? 再会を祝って、さ」
 杉本は子供の頃、三十歳と言えばもうすっかり大人であると思っていた。小学校の担任の先生はその時三十二歳であったと記憶している。美人な女性の先生ではあったが、やはりそこには自分達とは違う――大人の顔を持っていたのだ。
 今、杉本の目の前にいる女は、杉本と同じく子供であったのだ。それは、今抱いている印象でも同じことだった。年がいくつであろうと子供の頃の同級生は、やはり子供として見てしまう。
 同じ三十の歳であるのに、小学校の頃の担任の先生と、畑奈はどう違うのか。大人という"越えられない"と思っていた壁を、とっくに越えてしまっているこの空虚感。杉本は何かとてつもない違和感を抱き、思わず眉を顰めてしまった。
「わかった」
 杉本は頷く。かつての級友である畑奈萌が、十五歳から今までどういう人生を送っていたのかを知る機会でもあったし、杉本自身の人生を聞かせてあげるのも悪くは無いと思っていたからであった。

 新潟駅を出ると、午後十一時であるというのに車の量は減ることが無かった。段ボールに包まれて眠る人間がいれば、頬を真っ赤にして上機嫌で道路を闊歩するサラリーマンの集団もあった。
 夜に出歩いたり、不用意に駅周辺は行かないようにと、口を酸っぱくしながら中学校の担任が言っていたのを、杉本は最近の事のように思い出してしまう。
「どこへ行く? 俺は、もう新潟の地理は正直さっぱりなんだけど」
「私のお勧めの場所。って言っても焼鳥屋なんだけどね」
 畑奈が悪戯っぽく舌を出した。
 杉本は小さく笑って、
「もう、焼鳥屋なんて行くんだな」
「お互い三十でしょ。当たり前」
 先程の杉本の言葉が、そっくりそのまま彼に返される。杉本のからかうような笑みが苦笑へと変わった。
 雪の深いところを避けつつ、踏み慣らされた歩道を滑らないようにしっかりと歩みながら、二人はお勧めの焼鳥屋へと向かっていった。



「おじさん。ビール二つと、焼鳥適当に」
 畑奈が手慣れた様子で注文する。そこの親父と彼女は知り合いなのだろう。くっきりと皺を浮かべながら親父は畑奈に笑みを向けた。
 個室に案内された彼らは、焼鳥を焼いている際の煙に包まれながらも、そこでようやく安堵の溜息を洩らした。
「そういえば、畑奈はどうして今頃駅に……?」
 おしぼりで手を拭きながら、畑奈はやや俯く。そして、杉本の様子を窺いながらようやくその理由を告げた。

「私、旦那と別れたの」

 焼鳥屋の従業員が、ビールと焼き鳥を持ってきた。
「あっ、飲もう」
 畑奈はジョッキに手をつけた。おそらく自分が生み出した負の空気を、打ち消そうと明るく振舞っているのだろう。目に見えて杉本には理解できた。
 ビールの真っ白で滑らかな泡が、彼女の鼻と上唇の間にくっついて、白い髭が生まれた。杉本はその時、昔のことを思い出さずにはいられなかった。給食の時間。出される牛乳。競い合うように一気飲みして、おそらく教室中のほとんどの生徒がつけていた白い髭。
 彼は不覚にも噴き出した。
「うん? どうしたの? 杉本くんも飲みなよ」
「――ああ、うん」
 そこでようやく杉本もジョッキを手に取って、多めに口の中にアルコールを流し入れた。
「畑奈はずっとこっちにいたのか」
 一口であったのに、杉本の頬はほんのりと紅く染まっている。元々彼はアルコールにはあまり耐性が無かった。杉本の問いに、彼女は頷く。
「うん。高校卒業して、本屋に就職して、辞めて結婚した」
「本屋?」
 杉本が首を傾げると、畑奈はナンコツを取って、ぱくついた。
「ほら、万代橋近くのJ堂っていうところ。あ、私達が中学の時までは無かったっけ」
「無かったなあ。あの頃は本屋と言えばK書店だった」
 そう言うと、彼は皿からネギマを取った。
 美味い。杉本は率直にそう思った。脂と塩の乗り具合が良く、ビールのつまみには勿体無いくらいの味であった。
「美味いな、ここ」
「でしょ?」
 ぐいと畑奈が杉本に顔を近づけた。顔が徐々に赤らんでいく様で、確実に酔いが進行しているのがわかった。
 そして、沈黙を保ったまま、彼女はジョッキのビールを最後まで飲み干した。
「……どうして、かな」
「うん?」
 杉本が目を丸くすると、畑奈は微かに笑みを浮かべる。
「ね、杉本くんって将来の夢とか、子供の頃どんなんだった?」
 そう尋ねられた彼は天井を眺める。一体何だったろう。警察官。学校の先生……子供の頃は色々夢もあったが、果てにはこうして普通の会社勤めをして、会社の言われるがままにシンガポールへと赴いた。子供の頃の夢が薄らいでいったのはどこからだろうか。高校、大学。大学の三年四年ではもう夢では無く、現実問題としてのしかかっていた。
「警察官とか、だったかな」
 畑奈は目を丸くして、瞳を綺麗に輝かせながら頷いた。
「で、何になったの?」
「サラリーマン」
 杉本もぐいっとジョッキを空けて、二杯目を頼もうとした。
「実は私もね。本当は大学に進みたかったの。勉強して、弁護士になりたかったんだなあ……」
 畑奈は肘をテーブルにつけて、呟くように言った。杯目にしてすでに酔いが回っているのか、とろんと気持ち良さそうな目で、遠くを見つめている。
 しかし、その中にひっそりと潜む、暗く悲しげな光。杉本は理解できた。彼女は――畑奈は、自分の歩んだ道に後悔し始めているのだ、と。
 その点では、杉本も同じことを考えていた。周りの空気で大学進学。周りの空気で就職活動。果てには海外へと飛ばされ……思えば、彼は自分の意見を言わない人間になっていた。杉本自身がそう自覚したのである。
「杉本君は結婚、まだ?」
「相手がいないからな」
 杉本は苦笑した。つられて畑奈も微笑む。微笑する彼女を見るときだけは、全てが過去に、中学時代に戻ってしまったような感覚を覚えた。しかし、中学時代の畑奈の微笑と、今杉本に向かいあう女の微笑は限りなく似ているものの、どこか差異を感じた。
 ジョッキにこびり付いた泡が、パチパチと消えていく。そんな様子を眺めながら、杉本は続けた。
「畑奈は、結婚生活うまくいかなかったのか?」
 彼女は頷いた。杉本は急に罪悪感に苛まれた。咄嗟に話題を作ったとはいえ、畑奈の気持ちも考えない、あまりにもお粗末なものであったからだった。
「私、ぶたれたからね。いっぱい」
 ボソリと呟く畑奈の言葉は、まるで槍の先端のように尖り、杉本の胸中に突き刺さった。
 打たれるということはすなわち、畑奈は夫から暴力を受けていたというのだ。杉本の記憶に残る、あの天真爛漫な少女は綺麗に消えさった。もうそんな少女はいないのだ。彼女は、夫の暴力に耐えるドメスティックバイオレンスの被害者なのだ、と頭の中でそれは何度も何度も響き渡った。
 彼女の下唇を噛む仕草が、何とも痛々しく杉本は感じられた。
「そんな男だったのか」
 最早曖昧な返事ではぐらかすことの出来なくなってしまった杉本は、畑奈の受けた被害に対して辛辣な表情を浮かべながら、尋ねた。
「そういう男だった。結婚してから変わったの。まあ、でも、私も悪かったの。いい奥さんになろうとしても、なかなかなれなかったしね」
「だからといって」
 杉本が身を乗り出すと、畑奈は何事も無かったかのようにネギマを一本手に取り、美味しそうに食べ始める。その様子に杉本も身を整え、胸ポケットから煙草を取り出した。
 ネギを呑みこむと、畑奈は真剣な眼差しで、杉本を見つめる。
「聞いてくれる?」
 煙草に火を付けると、ゆっくりと彼は頷いた。

「私、旦那を――殺しちゃったの」

 がやがやとしたざわめきに掻き消されそうな程の、小さな囁き声。
 それは完全に、昔の無垢な少女と、現在の畑奈萌が決裂する瞬間だった。



杉本は人差指と中指で挟んでいる煙草の存在を忘れてしまった。それほどまでに、その言葉は衝撃的だった。
「驚いた?」
杉本は声を出さずに、目を丸くしながら頷いた。
「でしょうね」
それだけ言って、畑奈はビールを呷る。彼女の白い喉の膨らみが上下を往復した。
杉本は沈黙する。まさかそんな事実があろうとは。そして、そんな事実をよりによって自分に告白するとは。どう反応するべきか、彼は苦悩した。
「ごめんね、急にこんな事を言って」
「これからどうするんだ? お前は」
畑奈の声をきっかけにして、ようやく杉本は口を開くことができた。
訊ねられた彼女は腕を組んで眉を顰める。
「どうしよう」
杉本は彼女を見つめたまま、口を閉ざした。そして一寸過ぎた後に、彼は微笑む。
「いや、その話はやめて今日は飲もう。明日考えたっていいことだ」
そう言った杉本は、ツマミにモツの煮込みと川海老の唐揚げを頼んで、畑奈にもセブンスターの煙草を差しだした。畑奈は頭を振ったが、頬の肉を上げ、口を横に広げて、とても嬉しそうな表情を浮かべる。
次第に彼女の眼は輝き、その煌めきの大粒が頬を伝って零れ落ちた。
「泣くなよ」
「だって」
畑奈は洋服の袖で目をごしごしと拭いた。真っ赤になった頬が、袖の隙から垣間見える。
その夜は様々な話をして、明け方まで過ごした。小学校の時の運動会、文化祭、バザー。中学校の県大会や高校受験。そして彼らが過ごした地である新潟の変遷。
「そういえば、"白の館"ってレストランあったじゃない?」
「あったなあ。部活帰りに道路に立てかけられたメニュー見ては、腹空かしていた覚えがある」
「もう無いんだよ、あそこ」
「ええっ」
杉本の大袈裟な反応に、畑奈は可笑しそうにケラケラと笑う。
時には涙を流して、時には手を叩いて大袈裟に反応を見せる畑奈は、とても痛々しく杉本には感じられた。



「ありがとう。付き合ってくれて」
 うっすらと明るくなった空の下、朝寒に包まれながら、二人はプラットホームにいた。
「いや、こっちこそ楽しかったよ。お前は電車に乗らないのか?」
 杉本が笑みを作りながら、畑奈に訊ねかけると、彼女は小さく首を振った。そして一言。
「私はいいの」
「でも、昨晩は電車待ってただろう?」
 杉本は、電光時刻表を見た。始発の時刻はもう間もなくだった。
「私ね、昨晩……電車を待ってたのは、乗るためじゃ無かったの」
 畑奈の声に暗がりが訪れているように、杉本には感じられた。最早予測は付いていた。旦那の暴力に絶望して、決死の覚悟で殺してしまった彼女の――選ぶ道は。
「死ぬつもりだった」
「死ぬって、お前」
 しかし、実際に言葉にして聞くのはやはり、頭の中で思っている以上に、重みを含んでいるものである。深刻な衝撃を杉本はうろたえた。
「昨日はね。だけど、もうそんなことしない。迷惑掛けちゃうし、ね。サラリーマンは朝早いんだし、電車遅らせちゃマズいもん」
 畑奈は明快な口調でそう言った。そう言う問題じゃない、という言葉を杉本は呑み込む。
「これから、どうするんだ」
「警察、行くよ」
 杉本は眼を微かに細め、視線を下げた。そんな彼を見て、畑奈はにんまりと微笑む。そして眠気と疲労が蓄積しているせいだろう、力の入っていない杉本の肩を叩いて、
「がんばれよ」
と彼女は言った。
 たった六時間ぽっちの再会だった。


――了




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