黄昏の故郷





 皐月は、目を開けたまま動かない"人形"に向けて、無邪気に首を傾げた。
 ――ねえ。なんで逃げないの? 殺されちゃうよ。ねえ……。
 鋭い銀色のナイフが振り上げられた。そしてそれは、"人形"の胸へといとも簡単に突き刺さる。刺し口からは、深紅の液体が徐々に漏れ始め、口の端からも鮮やかな赤が零れ始めた。 
 しかし"人形"は尚も、目を開けたまま動かない。
 その目は皐月を捉えて離さなかった。皐月の目が、"人形"を捉えて離さないのと同じように――"まるで鏡のように"――。
 やがて布団のシーツの白が、じわじわと赤に浸食されていく。それは鮮やかな赤から、次第にどす黒い染みへと変わる。そしてその黒の染みを覆い隠すように、絶えまなく赤が流れ続ける。
 ――ねえ。死んじゃったの?
 皐月は小さな声で、異形とも言える"人形"に囁いた。
 "人形"は何も答えなかった。




 電車の窓から見る風景は、瞬く間に移りゆく。しかし、窓に映る私の顔は、何度見ても変わらない。鼻がぺたんこなために、決して美人でない容貌。大学に入った際のイメージチェンジがきっかけでずっと保ってきた、緩めのパーマがかかったボブヘアー。見える景色が、川から発生した白い靄のかかった山々になろうとも、広大な田園風景になろうとも、私の姿形は不変であった。
 私はとある理由で、N**県夏目市に電車で向かっていた。山間を線路が沿う形で伸びており、またその線路を沿って電車は進行している。それにしても、電車の揺れはどうしてこう眠気を誘うのであろう。まるで、母親に抱かれているような、そんな安らぎをもたらすものが、電車には存在する。
 母親。そう、私が夏目市に向かう理由は、私の母親にあった。
 
 ――あなたの本当の故郷は……
 
 私の母親である田辺美津子(たなべみつこ)が、死に際で私に向けた一言。いや、正確には死ぬ一日前であったか。母は分かっていたのだろう。自分が、近いうちに逝ってしまうことを。
 まずは私の生い立ちから、順を追って話さなければならないだろう。と言っても、正確には"五歳からの記憶"であるが。
 そう、"生れてから四歳までの記憶が、私の中でぽっかりと、抜け落ちているのである"。
 しかし、それ以降の記憶は人並みに憶えている。私は京都府宇治市の住宅街の真ん中で育った。母と私だけの母子家庭である。人見知りが激しく、あまり活発な子供では無かったが、勉学のほうはそれなりに努力して来た為に、K**大学法学部に入学する事ができた。
 母親である美津子は、そんな私を誇りに思っていてくれた。そして私も母の期待に応えようと、大学では一番前の席に座り、教授には積極的に質問して、万一にも単位を落とすことはあってはならないと、懸命に努力した。
 その頃であった。母の体調が崩れ始めたのは。
 悪性腫瘍。細胞の数をコントロールする機能が停止し、無限に増殖して生まれる悪性新生物。すなわち、癌である。
 母の場合はそれが胃に見られ、すぐさま入院を迫られた。
 私も、そしてもちろん母も、医者に病名を告げられた時には、驚愕と落胆の色を隠せなかった。二人きりの家族を引き裂く、医者の宣告。それは、まるでナイフのように尖り、私達の心を深くえぐる。
 私はそれからと言うもの、耳が痛くなるほどの家の静寂に耐えかね、来る日も来る日も、母のお見舞いに行った。
 ――バカね。お見舞いなんて良いから、あなたは夢をかなえるために勉強しなさい。
 ――お母さんは、あなたの為だったら、どんなことだって苦にはならないんだから。
 母は私に、眉を八の時にして笑ってみせた。私も、花瓶に入れる替えの花束を手に、無理にでも笑顔を作る。病室もまた静寂に充ち溢れていた。
 本当は泣きそうであった。しかし、母に涙を見せることで、母にどれだけの不安を与える事だろうと考えると、涙はすぐに目の奥へと戻っていく。
 母、美津子は強い女性であった。抗がん剤治療の痛み――無論、実体験は無いものの、ひどい苦痛を伴うことは私も理解していた。しかし、母はその痛みにも堪え、私に常に笑顔で接してくれるのだ。
 ――ご飯はちゃんと食べてるの?
 ――風邪引かないようにするのよ
 私は、母のそれら一つ一つの言葉に頷く。私が頷くだけで、母の表情がとても柔らかくなっていくのがわかった。もしかしたら完治するかも知れない……と、医療の事など全く分からない私が、何の根拠もない期待を膨らませていく程に、母は明るく振舞った。
 しかし別れの時は、惨酷過ぎるほどに、いとも容易く訪れる。
 ある夜に、田辺美津子の容態は急変し、そのまま帰らぬ人となった。享年四十八歳であった。
 あまりにも突然の事であった為に、母の死に際に私は立ち会っていない。ショルダーバッグを肩からぶら下げ、Tシャツにジーンズパンツというラフな姿で、廊下を全力で走った末に見たものは、真白な布が被さった母の顔。
 私は初めて母の前で泣いた。今まで耐えてきたものが、堰を切ったように溢れ出す。

 私はあまりに長い間泣き続けたので、すっかり目の周囲が赤く腫れてしまった。それと同時に、やや冷静になっていく自分がいた。
 そして、母が前日に言っていた"言葉の一部"が、熱の引き始めた私の脳内に舞い戻る。
 
 ――あなたの本当の故郷はね、鬼ヶ牙(おにがきば)村。もし、私に何かあったら……そこに行きなさい。今なら、大丈夫だから……。

 母は、決して私に"四歳までの私"を話して聞かせることは無かった。しかし、私の想像ではあるが、「鬼ヶ牙村」という単語は、「私の記憶」と何かしら結びつきがあるのではないか。"私の記憶に存在する空白"の理由も、もしかしたらその村に潜んでいるのでは、と思い始めた。
 正直なところ、私はもう二十二歳になっていたし、今更幼少の記憶などと、聊かどうでもいい気持ちになっていたのも確かだった。
 だが、これは言うなれば"母の遺言"である。
 母は最後の最後で、私に全てを打ち明けた。私にはそんな気がしてならないのである。得体の知れない大きな義務を背負わされたような、そんな感覚であった。
 私は図書館で鬼ヶ牙村を調べた。やや時間はかかったが、インターネットの恩恵を被ったおかげで、さほど苦も無く鬼ヶ牙村を探し当てた。――N**県夏目市鬼ヶ牙村。
 (これが……私の、故郷……?)
 まるで、物語に出てくるような奇抜な名を持つ村。その村が自分の故郷だとはどうしても思えない。もっとも、幼少の記憶が無いのだから、それを裏付けることすらできないのだが。
 
 ――キキー。キィイイイン。
 電車が徐々に速度を落とし、高い悲鳴を上げ始めた。目的地までの丁度中間地点に位置する、美作駅に到着したのである。
 私は、人目も気にせずに己の頬をパチンと叩く。そうだ。それがたとえ真実でなくても、真実でないことを証明できただけで良いではないか。私の人生は五歳から在ると言っても、私には何の支障もないのだから。
 まずは確かめるべきだ、と私は思う。幼き頃、その村に私が存在していたのかどうか、を。
 それに、法科大学院への進学内定はすでに貰っていたし、苦労してきた院試の勉強の息抜きに、電車でのぶらり旅も良いものだろう。
 私の心はやや軽くなった。無理矢理軽くさせた、とも取れるかも知れない。
「ここ、よろしいですか?」
 気がつくと、私の隣を指しながら、ニッコリと微笑みかけてくる老婦人が目の前にいた。




「学生さんですか?」
 隣に座った老婦人の問いかけに、私は決して巧くない笑顔をつくって頷いた。
「はああ、お一人で旅行ねえ。いいわねえ」
「ええ、まあ」
 ふっと、窓の外を見る。電車の速度は見る見るうちに上がっていった。前述したとは思うが、私は小さい頃から人見知りの激しい性格である為、どうしても無難な回答で済ませる傾向にあった。
 今ではそういった性格を深く呪っている。私の目指す"弁護士"職は、云わば客商売でもあるからだ。顧客に対していかに礼節を忘れずに、法に則って適切な判断を下さなくてはならない。裁判での主張も然りである。しかし――三つ子の魂は百まで続くと云われている。どう私が足掻こうとも、おそらく根本は変わらないのだろう。
「どこへ行かれるのかしら」
 老婦人は、まるで子供のお使いを見るような、庇護欲がありありとわかる眼差しを私に向ける。しかし、そんな心遣いも悪い気はせず、私は笑顔で――それでも半ば夢の中の世界を語るような、曖昧とした表情で――告げた。
「鬼ヶ牙村です」
「まあ……」
 ふと、老婦人の表情に蔭りが見えた気がした。それは自分の知らない土地の名を、告げられたことによる戸惑いだろうか。それとも、"その村自体に、何か不吉なものがあるのか"。今現在の私には知る由もなかった。
 老婦人はチラリと窓の外を一瞥すると、腿に乗せたポーチバッグを自分の横に置き直した。
「鬼ヶ牙村なら『四波川駅』で降りて、そこから歩きになるわねえ」
 この老婦人は村のことを知っている。どうやら、私の予想は後者になりそうだと思った刹那、悪寒が背筋を一直線に走った。私はその悪いオーラを掻き消すように小さく首を振り、老婦人の気分を害してしまうことも覚悟の上で、
「その村は、何か特別なのですか」
と尋ねた。
 老婦人は、若干苦笑に似た、粗末な作り笑顔を向けた。咄嗟に私の口から「ごめんなさい」と出そうになったが、そこは堪えることが出来た。何よりも村の仔細を知りたいと云う欲望――いや、自発的なものではなく、"知らなければならないと云う義務感"が、私の老婦人への謝罪を拒んでいた。とにかく少しでも情報が欲しい、と躍起になっていたのだ。
 ついに、老婦人の口が開いた。
「あの村は、あんまり良く無いわねえ」
 静かな声調になると、途端に掠れてしわがれた声が目立った。老婦人の視線は、向かいの車窓に伸びている。
「良くないと言うと」
 私は聞きたくないが、聞きたかった。そして私の問いに、老婦人は改めて私を見た。
「不吉なのよ。立て続けに火事が起こったかと思えば、自殺も起こったの。あの村はね、"時間が止まっているの"」
「時間が止まっている……?」
 私は、突然の比喩らしき表現に首を傾げる。しかし、老婦人は頷くばかりであった。
「まあ、自然は豊かだし、のんびりして良いところでもあるのよ。深入りさえしなければ、良いところだわ」
 老婦人は、取って加えたような"良い面"を主張した。
 ブレーキによる電車の悲鳴が、また車内に響く。
 到着したのは『四波川(しなみがわ)駅』。降りなくては。私は、親切にも村のことを教えて下さった老婦人に、感謝の意をこめて頭を下げた。
 そして、老婦人は私が席から腰をあげる瞬間に、電車のブレーキの騒音に負けないくらいに声を張り上げて、
「気をつけて。あなたのお名前は何て言うのかしら。また会える気がするわ」
 私は、電車の扉が閉まってしまうのではないかと気になりながらも、老婦人の温かな厚意に、しっかりと微笑みを向けた。
「田辺皐月(たなべさつき)と言います。こちらこそ、また会えたら嬉しいです」
 私はもう一度頭を下げた後で、電車を降りた。クーラーの効いた車内が一瞬で恋しくなるほど、四波川駅は燦々と太陽が照りつけていた。




 夕暮れ時。カラスの寂しげな啼き声が、屋敷に響き渡っている。庭もその中で生える木々も縁側も全てが赤く染まり、無論のこと、縁側で遊んでいる二人の少女もその斜陽に赤く照らされていた。
 二人の少女は、お互いにちょこんと座って無邪気に笑いあっていた。夕暮れの涼風が、二人のさらさらとした黒髪を靡かせる。
 二人の少女のうちの一人は、人指し指を向けて、
「これは?」
と、相手に尋ねた。聞かれたほうの少女は、やや困惑しているかのように首を傾げる。艶のある黒髪は傾いた方向へと流れた。しかし、間もなく「あっ」という閃いたような声をあげて、嬉しそうに答える。
「おかあさん」
 正解であったのだろう。質問をしたほうの少女は、満足そうに微笑む。
「じゃあこれは?」
 質問がまた一度繰り返された。しかし質問をされたほうの少女は、今度は悩む素振りを見せなかった。自信満々に胸を張り上げながら、
「おねえちゃん」
と答えた。
 それは他愛も無い遊びであった。




 私は、崖伝いに出来た車道の脇を歩いていた。聞けば、この辺はバスが通っていないらしい。高校時代の部活で培った逞しい身体であるならば、幾分かはマシだったかも知れないが、大学に入ってからというもの、スポーツらしいスポーツもしていない鈍りきった身体で、坂道を登るのは、至難の業だった。
 夏の暑さと坂道を踏みしめる足の疲れが、徐々に身体全体を重くする。ぼんやりとしていく思考の中で、ここが本当に自分の故郷なのだろうか、という疑念だけはハッキリと残った。出来るだけ、木々で日光が遮られた部分を選び、そして歩く。すると、頭の上には、鼓膜を揺るがすような蝉の鳴き声。
 私は、リュックサックの中に入れていたペットボトルに入ったお茶を、一気に喉に通した。
 ぬるい。駅で買ったばかりの頃は、あんなに冷えていたのに。
 しかし、喉がカラカラに渇いてどうしようもなかった私は、眉間に皺を寄せながら、最後までそのぬるいお茶を飲みきった。
 いつまでこの車道は続くのだろう。丁度、私がそう思っていた時であった。
 何か。そう、何かが私を呼んだ気がした。横風は、急に私の背中を押す追い風となり、蝉の声すら掻き消すほどの、周りの木々のザワザワとしたざわめきが響き渡る。
(ああ……)
 私は直感した。この場所は決して、私に無関係の場所などでは無い、と。
(私を、呼んでいる)
 自分でも不思議なほどに、鋭気が沸々と身体の底から漲った。それは、"この先にある何かが私に関係しているかも知れない"という疑惑から、そう、確信に変わった事によるものであった。もちろん、その証拠は何もない。何もないのだが――わかる。
 私は一歩一歩、コンクリートの硬い道を踏みしめて、前進する。
 残酷なまでの暑さと、蝉や虫、鳥の喧騒に耐え忍び、歩き続けること数十分経っただろうか。次第に黒い点が見えてきた。私は目を細めてその先を見る。
 トンネルだった。
 やっと、日陰を得られることにまずは喜んだ。もしかしたら、トンネルの先は目的地かも知れないという期待も高まる。私の足取りは信じられないほど軽くなった。

 トンネルの中は、今が昼間である事を忘れる程に、闇が支配していた。そして何より涼しい。先程までダラダラと掻いていた汗は急激に冷え、一変して「寒さ」に身を震わせる羽目となった。もしかしたら、このトンネルを抜けると雪国なのではないか、という莫迦げた考えが一瞬過る。これには、思いついた自分が言うのもなんだが、苦笑せざるを得ない。身も心も寒くなった。
 それは、思った以上に長い長いトンネルだった。出口は"一点の光として"しか、まだ捉えられない。そして、先程の状況からは信じられないほどの静寂は、私の胃の中でお茶の溜まっている音を際立たせた。たぷんたぷん、と一歩歩くごとに体中に響き渡る。
 
 ――さあ。皐月さん。いらっしゃい。

 不意に、眩暈に襲われたような感覚になった。それと同時に、妙に懐かしい何かが頭を過る。この寒々とした空間に、包み込むような温もりが、ふと思い出される。
(なんだろう)
 この眩暈は、単に熱射にやられたものなのだろうか。この懐かしいと思う気持ちは、単なるデジャヴだろうか。(なんだろう、この感覚は……)しかし、デジャヴにしては強い。強すぎる追憶が、無意識に脳内で展開される。

 私は歩き続け、ようやく、長い一直線の道に終止符が打たれた。
 そこは、もちろん雪国では無かった。だが、"明らかに向こう側とは違う世界"でもあった。盆地には、無造作に立ち並ぶ昔ながらの木造の家屋で、集落を成している。そしてその乱雑な集落を囲い込むかのように、丘陵上に三つの大きな屋敷が、それぞれ北、南東、西南に建っており、中央の盆地を向く形となっている。それは屋敷と云うよりも、戦国時代以前の"山城"を彷彿とさせた。
 私が今立っているのは、そして、トンネルの出入り口があるのは、南の山上である。
 これが、鬼ヶ牙村。間違いは無かった。
 そしてそこは、"時が止まっている"。まさに老婦人の言葉通りであった。まるで私がタイムスリップしたかのような錯覚さえ覚える。これは――いや、この"時"は本当に平成十八年の七月二十一日なのだろうか、という疑いが生じてきた。
 しかしそんな狼狽も、瞬間的なものであった。私にとっての"故郷としての魅力"が、そこにはあったからである。もちろん村の具体的なことは何も分からない。だが、漠然とした懐かしい気持ちが、私の心をくすぶった。
 そして、何かに吸い寄せられるかの如く、ふらふらと下り道を歩いていった。




 皐月は暗闇の中で生きていた。
 傷はもう痛まなくなってきたが、すっかり強い光を怯えるようになった。しかし、それでも食事を運ばれる際は、目を貫かれるような痛さに堪えながらも、獣のようにそれをたいらげるのである。
 皐月の生きている空間は、狭い牢獄のようなものであった。座っている時には足は伸ばせるものの、眠る時には縮こまらなければならないほどに。
「皐月ちゃん」
 牢獄の戸は大きく開かれ、皐月は突然の光に目が眩んだ。声が聞こえる。優しくも小さな囁き声。これは、皐月の母親の声。
「もうあなたに、こんな惨めな思いはさせないから」
(――みじめ……?)
 皐月は無言のままに小さく首を傾げた。
「さあ、皐月ちゃん。行くわよ」
 母は皐月に温かな笑顔を向けて、手を差し伸べた。皐月は外の強い光に、暫し眼を伏せ気味にしていたが、それでも嬉しそうに母の手を取った。

「お母さん、どこへ行くの?」
 母親の速い足取りと、強引に腕を引っ張られたことで怖くなった皐月は、不安げな表情で母親を見つめる。
 母親は皐月の方へと振り向き、諭すようにゆっくりと口を動かした。
「喜んで。あなたをこれから、何不自由なく生きられるの」
 意味は分からなかった。しかし、母のその微笑につられ、皐月も自然と笑顔を浮かべていた。




 ふと気がつくと、私は北の屋敷の門前に佇んでいた。私は自分自身の行動に驚愕した。
 どうやってここまで来たんだろうか。
 私は咄嗟に振り返る。背後の、南の方向には確かにあのトンネルが存在し、相変わらずポッカリと口を開いていた。まるで、夢中から突如現実に引き戻されたような、妙な感覚であった。
 やはり私は憶えているのだ、と確信した。頭では憶えていなくても、手や足が憶えている。私の身近な経験を例にするのは良くないのかも知れないが、ドライバー三年目になると、運転の際には手足が先に動いてしまう、といった現象と似通った部分があるのかも知れない。やや現実的ではない言い回しだが、夢中の内に辿り着いた、ということなのだろうか。
(じゃあ、やっぱりここが私の……)
 私は、改めて北の屋敷を眺め見た。門には表札が出ていて、そこには「柳」と書かれている。いや、これは彫りこんであるのだ。かなり昔からあるのだろう。表札の木材はひび割れも見受けられ、全体が黒ずんでいる為に「柳」と云う字もうっすらとしか見えないのである。その木造の門扉は意外と大きく、まるで京都にある舞鶴城の大手門のようである。私の視界を完全に塞ぎ、中の屋敷の様子を全く見せない門には、余所者は屋敷に絶対に入れるまいという威圧感すら感じられた。
 私の揺るぎないと思っていた確信が、少しだけ揺るいだように感じた。もし表札に「田辺」と書いてあったならば、ここで躊躇なく門を叩いたと思うのだが。
 さて、どうすべきか。私はとりとめもなく、こほんと咳払いをした。すると――
「どちらさんですか」
 ドクンと心臓が跳ね上がる思いで、私の身体は一瞬にして石像のように固まった。ゆっくりと声のする方向へ顔を向ける。声の主は婦人であった。髪の毛を後ろで縛り、割烹着を着た風体で、こちらを怪訝な目で窺っている。
 その背中で、勝手戸が風に靡きながらカパカパと揺れていた。おそらく、あそこから婦人は出てきたのだろう。
「あの、京都から来たのですが」
 まずは名前を云うべきだったろうか、と云った先から後悔し始めた。しかし、その女性は此方に笑みを向け、カタカタとつっかけの音を響かせて、こちらへ近づいてきた。年齢は三十後半、もしくは四十くらいだろうか。皺はそれほど濃くなく、肌の張りはまだ若々しい。健康的な美人と云う印象が強い。
 私の母――田辺美津子とは同年代か、それとも若干こちらのほうが若いか。それくらいの年齢だろうと見当づけた。
「まあ、あんな遠いところからご苦労さんでしたね」
 村に来て、初めてかけられた労いの言葉に、私は安堵と共に少し感動した。思えば、あんな過酷な山道を独りで歩いてきたのである。ここで冷たい対応をぶつけられ、門前払いなんてことになったらどうすればいいのだろうという不安が、今の今まで私の精神に絡みついていたのであった。
「あ、あの」
 私は思い切って声を発した。小高い丘の上だからであろうか。涼しい風が木々の間をすり抜けて、再び染み出てきた私の汗を冷やす。その婦人は目を大きく開けながら首を傾げ、私の言葉を待っていた。一体何を言ったら良いのだろうと、私自身も首を傾げたい思いに駆られた。
(ここに住んで長いのですか?)
(もしかしたら、ここは田辺さんのお宅ですか?)
(田辺と云う苗字の人を知りませんか?)
 声に出すべき疑問の数々が、頭の中で蜂のように舞って正直どれを口に出していいか分からない。(いや……)違うな、と私は思う。私が聞きたいのは"たった一つの疑問"であった。それを聞く勇気が無いからこそ、色々と遠回りに質問を生み出しては、脳内にそれを留まらせていたのだ。
 私は、思い切って自分の中枢にある問いを発してみた。
「"私"を知りませんか」
 
 長くもあり、短くもあった沈黙。
 女性の僅かに額に垂れた前髪が、一風に靡く。思ったとおり、眉を顰めた悩ましい表情で私を見続けていた。
「ごめんなさい、私はここに住みこんでいる手伝いなの。……どこかで会ったことあったかしら?」
 私は少し諦めたように息を吐きだした。明らかに落胆の表情を浮かべていることに自覚した私は、焦ったように女性に向かって手を振る。
「い、いいえ。私も、その、あまり自信がありませんので」
「――自信?」
 婦人は大きな眼をさらに見開かせた。私は少し迷ったが、正直に全てを打ち明けようと思った。この人ならば悪いようにはしないだろう――そんな根拠の無い信憑が私の中で生まれる。
 そして、私は意を決した。私には四歳までの記憶が無いこと。私の母、田辺美津子の存在。私の本当の故郷はこの鬼ヶ牙村であるという母の遺言。全てを婦人にぶつけた。
 婦人は案の定硬直した。そう、それは私が「田辺皐月」という名前を伝えた瞬間からであったか。
 彼女は下唇を歯で噛んで、眉を顰めさせ、そしてやっと口を開いた。
 しかし、開かれた口から出た言葉は弾丸のように脳に直撃し、私をひどく驚かせた。「驚く」というよりは「思考が停止する」という表現が妥当かもしれない。
「帰りなさい、今すぐ」
 私の視線は、ぐるりと辺りを見回す。真剣な婦人の眼差しを見ていたくは無かったからだ。
 そして私はやっと、その理由を問う余裕が生まれた。
「どうしてですか。やっぱり私はこの土地の人じゃないのでしょうか」
「そんなこと言っているんじゃないの。あのね、"皐月ちゃん"。これ以上ここにいたら――」
 婦人の顔が眼前に迫り、私の視界を支配した。
 皐月ちゃん。その呼称によって、婦人が私を知っているということに他ならないことを確信した。
「あなた、どうなるかわからない」
 私の背筋に寒気が迸る。

 ――今なら、大丈夫だから……。

 ふっと母の死に際の言葉が過る。陽光に当たって鮮やかなベージュ色を発する病室が、頭の中で再現された。今改めて考えてみると、"大丈夫"とは"何に対して"なのだろう。私は何やらとてつもない大罪を背負っているような負い目を感じた。
「でも、でもわたし」
(確かめたい)
(もう帰れない)
 此処まで来た以上は、もう引き返すという選択を考えてなどいなかった。おそらくこの村に至るまでの道中――ずっと頭に過っていた"引き返す"という選択肢は、奇しくもこの時点では消え失せている。私と云う人間はもはや、鬼ヶ牙村という大蛇に呑みこまれたようだった。
 そう、"道中のあの苦労"という要素が私を引き返させないのではない――と、感覚的に理解した。では、どうして頑なにもこの地に足を踏みとどめているのか。それはやはり此処が"私の故郷だから"に他ならない。
 具体的な記憶は無いが、肌が憶えている。眼が憶えている。足が憶えている。手が憶えている。なのに、精神活動の中心である脳だけが、独り何も知らない"ふりをしている"。
「あの、えっと、あなたは――」
「あら、ごめんなさい。私の名前は須藤美枝(すどうみえ)って言うの」
 須藤という婦人は、強張った表情を崩さずに自己紹介を済ませた。私は、やや自分でも大袈裟に感じるほど、頭を大きく頷かせた。
「あの、須藤……さん。あなたは知っているのですか? その……私を」
 須藤は小さく俯き、表情に翳りを見せる。しかしその翳りはすぐに晴れて、
「ごめんね、皐月ちゃん。私」
 申し訳なさそうな表情が、私にはとても痛く感じられる。これ以上聞いても無駄だ。私は、大きく彼女に頭を下げて、いよいよ踵を返した。やっと、以前の私が心の内に見えた。故郷などどうでもいいと思っていた――いわゆる"冷めた自分"が、ようやく私の中に現われたのだ。
 こうして、私は帰路を歩み始めた。
 しかし、私の帰路は妨げられていた。
 それは、男が私の行くべき道にあったからであった。もじゃもじゃとした顎髭は真っ白で、杖をつく仕草は男の老いを感じさせる。しかし裏腹に体格は良く、まさに山男の典型であるように思える。
 男はギロリと大きな眼を私に向けて、ゆっくりゆっくりと近づいてきた。私は思わず背筋を伸ばしてしまう
「君は」
 その白髭の太った男は、私の全身を舐めるように見て、微かに首を傾げる。
 私が名前を言おうとした時、屋敷の手伝いである須藤は、大きな声で私の代わりに返事をした。
「観光にいらっしゃったお客さんです。この屋敷が珍しいので、いろいろ見てみたいと言う事で」
 驚いた。須藤は嘘をついたのだ。
 私は後ろの須藤に向かって振り返り、大きく目を見開かせた。須藤が懇願するような眼差しで私を見ている。これは、口裏を合わせてくれということなのだろうか。なぜここまで自分の素性を隠さなければならないのか――私は大きな混乱と僅かばかりの恐怖に苛まれた。
「本当かね」
 白髭男の確認に、すぐさまこくりと頷く。いや、頷くしかなかったと言うべきだろうか。私に選択肢は与えられなかった。
「そうか。ゆっくりしていきたまえ。何も無いところだがね」
「ありがとうございます」
 私は微かに微笑んだ。
「私は柳道久(やなぎみちひさ)という。この家の主だが、そう畏まらなくてもいい」
 外見は偏屈そうであるが、話し方を察するに、そう気難しい男でも無いということがわかる。声の調子は穏やかで、孤独な私にどことなく安心感を与えてくれた。
 しかし――私は疑問に思う。
 なぜ、柳道久の背後にいる須藤は、あんなにも顔面が蒼々となっているのだろうか。それほどまでに私の存在は、この村の中では隠しておかなければならないのか。
 烏がガァガァと鳴き始める。
 陽光はやがて山へと傾き、空全体が紅く――紅く、染まっていった。




 身体も頭も重い。そんな中で私は燦々と太陽が照りつける道を走っていた。
(私は……)
 見事なまでに大きな立樹の数々の間を走り抜け、私は誰かを探している。私は必死に自問した。
(私が探しているのは……一体、誰?)
 一向に脳が機能しない。脳のコードが一本切れてしまっているのかと疑ってしまうほど、私はその探している人物の詳細に辿り着けないでいた。
 しかし、"私は確実に何者かを探しているのだ"。
 私という視点は、見る見るうちに森を抜け、急な下り坂を恐れもせずに駆けていく。
(これは……この私は……)
 私は横を見た。下水道の金属パイプに自分の姿が映っている。やはりそうか、と私は"自分自身"を認識した。
 白いワンピース、切り揃えた前髪、こめかみを通って流れ行く汗。幼くあどけない表情に、まだ息を荒げてパクパクと開閉する唇。
(これ……は、子供の頃の……私)
「おそかったね」
 私の脳内がくるくると動いている間に、誰かが話しかけてきた。
 清らかなソプラノボイス。
 振り返ると、そこにいたのは"私そっくりの少女"であった。私は知らず知らずのうちに微笑んでいた。
「あそぼ」
 その言葉はどちらが言ったものだったか。私に瓜二つのその少女は、八重歯を露にしながら満面の笑みを浮かべて、私の手をそっと握る。
 ミーンミーンと蝉が鳴き、小川のせせらぎが心地よく聞こえるなかで、少女はわたしの手に何かを潜らせた。――ハンカチだった。
「お母さんに作ってもらった。私の名前入り」
「ずるい」私はそう言う。
「だったら、あげる」
「ほんと?」私は嬉しそうにしている。
 純な、屈託のない少女の笑みは、次第に太陽の白い光に呑み込まれ、森も家屋も道も――何も無い白い世界へと私は引き摺り込まれていった。



 ぼやっとした視界は、鮮明になるにつれて、天井からつり下がった電灯を捉える事が出来た。
 私は夢を見ていたようだった。そして、その夢の中の風景は――明らかに、この鬼ヶ牙村である。奇妙でありながら懐かしい夢。そんな感覚を覚えるという事は、やはり私はこの村の一員であったのだろう。だが、なぜあの屋敷の手伝いは私の素性をそこまで隠そうとするのか。
 私の幼少期に、何かが起こったのか。起こったとするならば、いったいそれは何なのか。
 目をごしごしと擦って、上体を起こした。ふっくらとした布団に包まれていたせいか、つい長めの睡眠をとってしまったようだ。私はゆっくりと首を動かして辺りの空間を見渡した。掛け時計が示す時刻は午前十時二十五分。襖に閉ざされた立派な部屋で、私は一夜を明かしていた。
(そういえば……私は昨日)
 私は目を瞑って"記憶の糸"を手繰り寄せる。私の視点は、"この村に到着した昨日の時点"へと舞い戻っていった。




 私との挨拶を交わしたのち、柳道久が屋敷の中に入ってすっかり見えなくなると、須藤は私の背を押した。
「おねがい。本当にダメなの。此処にいちゃいけない。帰りなさい、いいわね」
 そうは言っても――と私は空を見上げる。もうだいぶ空は紅い。だがそんなこともお構いなしに、須藤は目を剥き出して私に迫った。私も、無理矢理居座るわけにはいかない。しぶしぶ小高い丘をゆっくりと下っていった。
 なぜこんな時間に、あのトンネル、あの山道をもう一度経験しなければならないのか。私は無性に、須藤が憎く思えてきた。理由も話さずに「帰れ」の一点張り。さすがに温厚な私もそれは如何なものだろうかと、憤慨せざるを得ない。
 しかし、それを本人の前で表せないところが、私の気の小さいところでもあった。
 暫し小石を蹴りながら歩いた。
うっすらと空にかかった白い雲が、斜陽によって生じる黄昏色と混ざり合っている。微々たるものではあるが、不吉な天候を暗示しているようだった。
「あら」
 高い女性の声が聞こえた。
 私はゆっくりと見上げる。背が高く、前髪がきちんと揃った長い黒髪を靡かせる女性がそこにいた。
「こんな時間に、どうしたのですか?」
 その冷たい容貌とは対照的に、案外と馴れ馴れしく近寄って来た。見る限りでは、私と同じ年代だろうか。二十一から二十四あたりというところだと思う。漆黒のワンピースの裾が風に靡き、それが妖艶な美しさを醸し出している。この寂れた(言い方は少し悪いが)集落には不釣り合いの高貴な仕草に、整った顔立ち。私は女の身でありながらも、つい一固まりの生唾を喉にごくんと通してしまった。
「え、ええと」
 私は一瞬言葉を忘れる。
 少しの沈黙に時を浪費し、やっと言葉は蘇った。けれど――自分の素性をこの人に説明して良いものだろうか。須藤があそこまで私の素性を隠そうとした――そんな光景が頭に蘇る。だが、今となっては誰に話しても同じことだとも思う。私がこの村にとって都合の悪い存在だとしたら、須藤同様にこの女性は私を排斥するだろう。たったそれだけの話に何を恐れることがあるだろうか。もちろんこれからあの山道を渡って帰るとしたら、それはかなりの恐怖だが。
 私は、一切の事情を告げる。一回話したことの重複ではあったのだが、ところどころ詰まったりしたのは、やはりこの女性の妖しげな美貌によるものだろうか。
 女性は――私の予想を裏切った。
「そうでしたの。じゃ、今日は家に泊まっていきません? 流石に今から帰れないでしょう?」
 なんということだろうか。
 女性の微笑みに、私は目頭が急に熱くなった。そして背負ったリュックサックの重みが消えた。この村に来て初めて人の優しさに出会えた気がしたのだった。しかし、私も立派な二十二歳。ここで泣くわけにもいかず、私は精一杯に感謝の微笑みを浮かべる。
「私は柊夏代(ひいらぎなつよ)と言います。よろしくね」
「よろしくお願いします。私は――」
 夏代のほうから差し出される手を握って、私は深い安堵に包まれたのであった。

 夏代の家とは、南東に位置している小高い丘の上のお屋敷のことであった。北が「柳家」、そして南東が「柊家」。どちらも古い武家のような家名である。もっとも、その時の私の幼稚な頭の中では、いじわるなのが柳家で、親切なのが柊家という認識しかなかったのだが。
 夏代はすらりとした脚で一歩一歩踏みしめて、石造りの階段を上っていく。私はと言うと、そんな彼女の背を見つめながら、案外きつい階段の上りに悪戦苦闘していた。
「大丈夫? 皐月さん」
「はぁ……はぁ……な、なんとか」
 ここにきてリュックサックの重みが、私の肩を苛めにかかった。
 我ながら一体どんな醜い表情をしていたのだろうか。元から酸欠状態で顔は赤くなっていたのだが、夏代のクスッとした笑い声によって、私はさらに真っ赤になってしまった。
「もう少しですから。家へあがりましたら、冷たいお水でも頂きましょうね」
 私は頼りっぱなしのこの状況を――いや、その前に汗が滝のように流れて、情けない表情をしているだろう自分の顔を――恥ずかしく思いながら頷いた。

 さて、まるで山を這う蛇のような長い石段の上に待っていたものは、やはり木造で古風の、山上に佇む平屋の日本建築であった。まず私が驚いたのは、前庭の広さであった。これだけの広さの庭を持つとなると、手入れが大変だろうなと思ってしまう。しかし、庭の下草は丁寧に短く刈り取られ、敷石が綺麗に露わになっている。
 私が暢気に、庭を眺めながらそんな事を考えていると、夏代の手が私に置かれた。あんな長い石段を上ってきたにもかかわらず、涼しい表情を浮かべている。
「お庭がそんなに珍しいですか」
 夏代が微笑むと、私ははにかみながらも頷く。ここまで私は社交性に欠けていただろうか。少し――ほんのちょっとだが――憧れの弁護士を目指すことに、自信が無くなってきたかも知れない。
「さあ、あがりましょう。今夜は泊っていってくださいね」
「あ、あの」
 私は無様にも目を剥いた。夏代が私の手をとって握り、そのまま敷石を踏みしめて屋敷の中へと入っていく。もちろん、私も引きずられる形で、柊家へと邪魔をした。
 やはり、その際にも私は何も言えなかった。




 屋内の廊下は幅広いが、仄暗かった。夏代は裸足で、私は靴下を履いた状態で、張り巡らされた木板をぺたぺたと踏み歩んでいく。ギシギシと木の悲鳴が上がる以外は、まるで無音状態であった。
 そんな沈黙を掻き消すべく、私はふとある疑問が頭に過ったので、それを訊ねてみる。
「あの、夏代さん」
「はあい」
 やや間延びした声で反応してきた。もう友達感覚なのだろうか。
「ご家族は、家にいらっしゃるのですか?」
 私の問いに、夏代は唇に己の指を軽く挟みながら考え込む。
「ええ、姉と兄がいますよ。と言っても、姉の春香様はもうすぐでいなくなってしまいますけど……」
 私は、姉に様づけをするのにまず驚いた。いや、そもそも私には兄弟姉妹がいないので、それがどういう感覚であるかはわからない。しかし、少なくとも私の幼き頃の友達は、姉に様をつけて呼んだりなどしなかったはずだ。
 私はあえて父母がいないことには突っ込まずに、姉の話へと話題を持っていこうとする。
「いなくなってしまう、のですか?」
「ええ、嫁いでしまうのです。柳家に」
 夏代はさびしそうに眉を顰めさせた。柳家――それは、先程尋ねた北の屋敷に住む一族の事なのだろう。もしかしたら、私の"実家"なのかも知れない、あの家。しかし、須藤にすっぱりと門前払いを受けた後では、もう生まれ故郷の存在などどうでも良くも思う。私にとって、やはり故郷の価値とはその程度のものなのだ。
 夏代は、不意に立ち止まると右側の障子を開けた。
「今日はここに泊まっていってください。お客様用の部屋です。きちんと掃除してあるから大丈夫ですよ」
 私は「ありがとうございます」と礼を言って、まずは一足、客間の中へ踏み入れる。
 客間の中央には大きな木製のリビングテーブルがあり、隅には布団が畳んで置いてある。障子を開ければかなりの光が入ってきそうな部屋であった。
「では、水を持って参りますから、待っていてくださいね」
 その言葉に私が振り返ると、すでに夏代は消えていた。私はふっと一息ついて、縁側へと向かう。日もすっかりと傾いて、山と一体化していく様子がよくわかった。
 そう、私はこの村で一晩過ごすのだ。
 足裏に触れる畳の感触――そして、この屋敷に漂う、私達の世界では感じられないような空気が、改めてそれを実感させる。この村に呑み込まれてしまうのではないかという恐怖が、常に私の心の中に内在し、蠢いているような感覚を覚える
 さて、明日はどうすべきか。
 寝食が確保できたことにすっかり安心しきっていた私が、そんなことを考えていた時だったろうか。私が入ってきた側の障子が、すっと開いた。
 私は目を剥いた。それはもちろん、衝撃によるものである。
 そこにいたのは、車椅子に座った――髪の長い、人間であった。男か女かはわからない。なぜならばその人間は"顔をぐるぐるに包帯で巻かれていたのだから"。
 包帯の隙間から見える、そのギラギラと輝く眼。灰色に近い乾いた唇。それらは真っ直ぐに私に向けられていた。
「あなたは……どなた?」
 包帯で顔を巻いている人間は、私に声を発した。その声でやっと、私は今向かい合っているその存在が、"女"であることを知る。意外――と言っては失礼かもしれないが、その異形とは裏腹に、言葉遣いはきちんとしていた。
「私は、京都から来ました。た、田辺皐月といいます」
「さつき、さん?」
「はい」
 私はこくりと頷く。彼女は天井に視線をくれて、何か考え込んでいるようだった。乾いた唇がゆっくりと動いている。あれは、声に出さずにサツキ……サツキ……と口で繰り返しているのであろう。まさに口だけを動かしながら、彼女は沈黙を保っていた。
「あの、あなたは、どなたですか?」
 鸚鵡返しになってしまったが、私はこの陰湿な空気に耐えかねて、尋ねる。
「私は……柊春香(ひいらぎはるか)」
 彼女の頬の筋肉が動いたのが、巻かれた包帯の盛り上がりを見てわかった。きっと笑顔を作ってくれているんだと、私はそう思う。柊春香――つまり、夏代の姉ということだ。
 春香は自力で車椅子を動かし、私にゆっくりと近づいてきた。私はつい身体を強張らせてしまう。そんな私が滑稽に思えたのか、彼女の眼は半月形になって笑っているように見えた。
「私の顔を見て、驚いているのでしょう?」
「いえ、そんなことは」
 言葉でそう言っていても、態度に表れているのだろう。私は、自分でも説得力の無い言葉を発言したものだと、深く後悔した。
「私が怖い?」
 春香は車椅子から身を乗り出して、私の顔にゆっくりと顔を近づける。近くで見ると――やはり、それは決して見栄えの良いものではない。包帯の隙間から見える、目や口の周りは灰色に染まり、ある部分では皮膚が剥がれかかっていて、ある部分では水疱の跡が点在している。
 しかし、眼は綺麗だった。キラキラと潤った白目に、映る他色を呑みこんでしまいそうな程の真黒な瞳。何より、醜の中にある美はいっそう美しく見える。
 怖いかと云う問いに、私は必死で頭を振った。それは正直な気持ちであった。目を見つめれば、恐怖心は嘘のように薄れていく。そんな私を見て、春香はどこか安心したようだった。顔の(あるいは身体の)どこの部分を見て、私がそう思い至ったかは定かではないが、何となく春香の気持ちは理解できたような気がする。とは言え、初めて逢ったばかりの人の気持ちがわかるというのも、少しおこがましい気がしてしまうが。
「おめでとうございます」
 私はがんばって微笑みかけた。当然、春香は首を傾げる。彼女の、唯一包帯から解放されていた長い黒髪がさぁっと流れた。
「ご結婚なさるんですよね。初めて逢ったばかりの私がこういうのもなんですけど、どうかお幸せに」
春香は、ゆっくりと頷く。
「ありがとう。……でも、もう子供もいるのよ」
 私の肩がピクンと震えた。
「子供?」
「ええ、まだ生まれたばかりなんだけど」
春香は微かに照れくさそうな笑みを浮かべる。やはり包帯だらけのその表情では察することは難しいが、やや弾んだ声調に喜びが表れていた。
子供を産む幸せ。それは、やはり私にはまだ理解できない境地なのだと思う。子を持つと女は強くなれるというが、もし今の私に子供がいたのならば、こんな辺境の奇妙な地にも動じずに、己の"故郷"を探し求めることができただろうか。
 私はあえて、なぜ彼女が包帯を顔全体に巻いているのかを聞かなかった。おそらくそれは、火事による火傷ではないかと大体察しがついていた。私はふと、日中の電車の中での老婦人の言葉を思い出す。

――不吉なのよ。立て続けに火事が起こったかと思えば、自殺も起こったの。
 
 おそらくあの老婦人の言う火事の被害者が、春香だったのだろうという予想は容易についた。彼女の包帯の隙間から見える生々しい火傷のあとは、やはり痛々しい。私は失礼だと思いながらも、気の毒に感じて少し眉を顰めてしまった。
 その時であった。
 ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ。
 妙な音が屋敷中に響き渡った。この木造の屋敷の柱の一つが軋み始めたのだろうか、とまずは思った。しかし――そうではない。これは、何か生き物の鳴き声だ。なんとも不気味に廊下中に響き渡っている。
(カエル……?)
 ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ。
 すると、春香は目を丸くして、車椅子のハンドルに手をかけた。
「あら、あの子ったら。もうぐずっちゃったのね」
 春香の声は瞬く間に優しい"母"の声となった。
 子供。あれは、赤ん坊の泣き声なのか。――違う、と私は頭を振る。赤ん坊の泣き声は、あんなに無機質では無い。あのカエルのような声が、赤ん坊のものであるわけが無い。いや、本当は断定など出来ないのだが、そうであると信じたい。私はすがるような気持ちで春香に確認した。
「あの声は、お子さん……ですか?」
「ええ、護っていうの。今はもう可愛くて可愛くて……」
 私の頬の筋肉が硬直しているのにもかかわらず、春香の声は変わらずに弾んでいた。それは、とても幸せそうな母の声。しかし――私の耳に纏わりつくのは、あのカエルのような――。
 ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ。
 不気味な泣き声によって、私の思考は一瞬遮られた。ふと気付くと、春香はすでに目の前から消えている。私は大きな疲労の固まりを、どんっと身体にぶつけられた気分になった。
 夏代が水を盆に乗せて戻ってきた頃には、私は柱に凭れかかって座り込んでいた。きっと私の顔面は、疲れ果てた表情をしていたに違いない。あの泣き声は出来れば二度と聞きたくはないと思った。あの、生理的な嫌悪をもたらす無機質な声は二度と。
 夜になって食事が運ばれてきたが、当然のごとく私は大して食欲も出ずに、半分ほど手をつけて、それから膳を下げてもらった。兄がいると夏代から予め聞いていたのだが、屋敷の中で遭遇する事も無かった。
 私はすっかり気持ちが落ち込んだ状態で、ふっくらとした布団の中へと潜り込む。
(あれは……)
 ――ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ、ゲッ。
(あれは本当に、赤ちゃんの泣き声……?)
 今も鳴り響いているのではないかと疑うほど、耳の鼓膜よりも奥にへばり付いて離れない"音"は、激しい疲労による強烈な睡魔に身を委ね、意識が安らかに遠のいていった時にようやく治まった。


10

 "記憶の糸"の末端まで辿り着いた私は、ここでようやく現在に至る。夜には存在していた陰鬱とした気持ちも、朝の眩しい光を浴びたおかげで幾分かは落ち着いていた。そう、この村に朝が来た。黄昏と暗闇に常に支配され続けているような、そんな錯覚さえ抱かせるこの奇妙な世界も、私達の世界と同じく、夜の次には朝が来た。私は何故か知らないが、そんな当たり前のことにとても安心感を覚えてしまった。
 私はぐぐっと伸びをして、しばらく間抜けな顔をしながら視線をあちらこちらに注ぐ。
 そんな時であった。
「皐月さぁん? 起きていますか?」
 少しキンキンとするくらいの高いソプラノボイス。部屋の外にいるのは、柊夏代であった。私は寝起きの喉の渇きに、おほん、と咳払いをすると、
「はい、起きていますよ」
「あら、おはようございます。それじゃ――中に入ってもいいですか?」
 障子越しでも、夏代の頭が傾けて黒髪がさらさらと靡いたことがわかる。
「どうぞ」
 そう言ってから間も無く、障子戸は開いて、朝でも整った顔立ちの夏代の顔が現れる。しかし、あまり良い表情ではない。何か焦っているような――そんな印象を覚えた。夏代は改めて「おはようございます」を繰り返すと、私も「おはようございます」と深々と頭を下げた。
 私が頭を上げた時に見た夏代は、笑顔であった。しかし、それは作りものだとわかる。なにか、心ここにあらずといった感じだ。
「何かあったのですか?」
 私は夏代の不自然にそわそわとした態度に、思い切って訊ねてみる。
 夏代は一瞬びっくりして目を丸くした。こんな仕草もいちいち愛らしい。彼女は私の眼差しを受け取ると、チラチラと天井を見上げながら、悩ましげに唸り声をあげた。それに対して私は軽く首を傾げる。
「驚かないで聞いてくださいね。私も朝になって突然耳にしたものですから……」
 夏代は、乱れた前髪を撫でて整える。やや伏せ目がちに、
「柳さん家――あの、北の屋敷の道久様が、殺されたようなのです」
 そう言って夏代の眼はまっすぐに此方に向けられた。柳道久――昨日私が柳家を後にする時に、すれ違いざまに挨拶を交わしたあの白髭の男を、私は鮮明に思い出すことが出来た。
(こ、殺された……?)
 病死でも老衰でも事故死でも無く、つまりそれは、殺人事件――。
「通報はしたんですか?」
 私はすべき事がらを順々に述べようとした。もうすでに手は打っていることだろうから、私が今更ここで慌ててもしょうがない気がするのだが。
 しかし、その返答は私の常識では考えられないものだった。
「いいえ、通報――警察に連絡などは致しません」
「どうして?」
 あまりの不可解なことに、考えるより先に口が開いてしまった。
「この村では、余所の人に力を借りることはありませんの。道久様も一件が収まれば、すぐに火葬となりますわ」
「そんなことって」
 私は突っかかってしまう。しかし、私の意見は正論である。車の接触事故や、今問題となっている家庭内暴力においても通報義務が課せられる。況や、殺人の通報義務を怠れば、それは完璧な違法であり、罰に服すことになってしまうのだ。あらゆる集落において、この日本国にある限りは、日本の警察庁の管轄となる。それは、無論この村も例外では無い。
「それが、この村のしきたりなのです」
 私の常識が、村という小さなコミュニティの一ルールによっていとも簡単に崩れさる。だが、どうしても納得のいかない私は、強い視線を夏代に浴びせかけた。
 夏代はそれを一蹴するかのように、
「ごめんなさい。でも、道久様を殺した人間は――きちんと、私達も殺しますので安心なさってくださいね」
 私は耳を疑った。「殺す」という単語が、この微笑の美しい夏代から発せられた時には。そんな私の愕然とした表情を、夏代は慰めるように頬を撫でてきた。
「そんな顔なさらないで」
 あまりに冷たい夏代の手を頬で感じて、私は思わず仰け反ってしまった。そして私は、その優しげな笑顔の中に冷血の存在を疑い始める。おそらく仮に、私が道久を殺した犯人だとしたら、彼女は躊躇せずに私を殺すのではないか。
 いや、彼女だけでは無い。もしも、このような「目には目を」の復讐法もまた、村の"しきたり"の一つであるならば、村中の人間が私を地の果てまでも追いかけて、八つ裂きにしてしまうのではないか。私の背筋に冷たい蛇が這った。
 しかし、ふと、とある疑問が生まれた。気分を変えるという意味で、それをぶつけてみる。
「なぜ、殺されたと」
「はい?」
「なぜ、殺されたとわかるんですか? もしかしたら自殺だったとか、病死だったとか――なんていうことが考えられたりはしないんですか」
 私のまるでドラマに出てくる探偵のような詰問に、夏代はまたもしばらく伏せ目がちになりながら、指を唇で柔らかく咥えた。
「私も実際に見てないのでなんとも……ですが、その、"刀で斬られていた"そうです」
 私の動悸は早まる。それに加えて、強烈な吐き気を覚えたために、思わず手で口元を抑えた。というのも昔、友人同士で見たスプラッター映画を思い出してしまい、あまりに凄惨な場面を想像してしまったからであった。しかし、まさかそんなことが現代に起きようとは。刀が凶器になるなど、もはや作り物の世界でしか起こらない事だと思っていた。
「大丈夫ですか?」
 夏代は、私の背を擦る。私は小さく頷いて、無音を保ちながら深呼吸した。
「自分で自分を刀で斬るということは、考えにくいのではないでしょうか。私もよくわかりませんけど」
「ああ……」
 私は納得する。そしてそれと同時に、聞かなければ良かったという後悔も生まれた。


11

 私は夏代と共に、柳家の屋敷に到着した。殺された柳道久の元へと向かっている。もちろん野次馬気分を味わいたいわけではなかった。そんなにこの状況を愉しめる余裕は、残念ながら、凡人の私には持ち合わせていない。
 しかし夏代は、柳家に赴かなければならない理由があったのだ。「柳家(やなぎけ)」と「柊家(ひいらぎけ)」、そして残る南西の「橘家(たちばなけ)」はそれぞれの家同士で、かなり強い結びつきがある。そして、柳家の長である柳道久の死は、柊家や橘家はおろか、村をあげて弔わなければならない。これも偏屈な"しきたり"のひとつであった。
 そういう理由で、この時間は柊家全員――といっても夏代の他に、姉である春香と兄くらいしかいないようだが――が出払ってしまうという事態になる。そんな中で、私ばかりが留守を決め込んで、部屋の中に居座っていては悪い気がしたのだ。それに、昨晩聞いたあの"声"による恐怖が体に染みついているので、独りになるという事態を一番に避けたかったという事もある。
 柳の屋敷前の上り坂を上りきったところで、夏代は私に話しかけた。
「道も慣れてきたようですね」
 私は苦笑を浮かべて、返答を濁した。確かに昨日に比べれば、息もそれほど上がっていないのだが。これから、柳道久の死体を見るかも知れないという恐怖が――身体的な感覚を麻痺させているのかも知れない。
 柳の屋敷には、思った以上に人が溢れていた。これは村落の民の人々であろうか。屋敷の中を覗きこんでは、隣にいる同じような人間に話しかけている。まるで、死んだ虫に大量の蟻が我こそはと群がっているような、喩えは悪いかも知れないが、そんな光景であった。
「夏代」
 突如、夏代の肩に置かれた手。それは、背の高い男の手であった。黒ぶちの眼鏡をかけており、朝だからなのだろうか、髪は整えていないようだった。
「お兄様」
 夏代はさらに唇を緩めた。この人が、柊夏代の兄――ということか。
 男は、妹の顔を見た続けざまに、私の顔をまじまじと眺める。
「おはよう。君が京都から来たお客さんだね」
 私は慌てて頭を下げて、
「お、おはようございます」
「そんなに畏まらなくていい。昨日は挨拶できなくて悪かったね。僕は春香と夏代の兄、柊俊介(ひいらぎしゅんすけ)だ。あまりに不潔で幻滅しただろうが、どうかよろしく頼むよ」
 その男――柊俊介は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべて、私に手を差し伸べた。
 私は、俊介の手を右手で握りながら、改めて頭を下げる。
「私は田辺皐月といいます。よろしくおねがいします」
「皐月……? 君の名前は、皐月……?」
 俊介の眼が少し変わった。眼鏡越しに、真剣な眼差しが見て取れる。
「ええと、君とはどこかで――ああ、いや、なんでもない」
 私は首を傾げる。この男は、私を知っているのだろうか。
「お兄様、皐月さん、中に入りましょう」
 夏代は、開かれた屋敷の正門前で、柱に手をかけながら私達を呼びかけた。

 すべての障子戸が開放されている為か、屋敷の中はかなり明るかった。おそらく、屋敷内に入ることは並の村人には許されていないのだろう。
「道久さんが殺されていたのは、奥の離れらしい。あまりお客さんには見せたくない光景だよ。特に君のような――」
 最後の言葉に、私は首を傾げる。
「特に……とは?」
「ああ、いや君のような純粋そうな女の子には――って意味だったけど、僕がいうと口説き文句にもならんなあ」
 俊介は自嘲しながら、癖毛でこんもりとした頭をボリボリと掻いた。
「で、どうする? 夏代の付添いで来たんだったら、廊下で待っていてもらってもいいんだが」
 死体を見たいとは思わない。それも、刀で斬られている死体など。今日の晩の夢にでも出てきそうだ。私が丁重にお断りをしようと、言葉を選んでいた時だった。
「平気、よね」
 夏代は首を傾げながら、そう私に投げかけたのだ。夏代の私への眼差しが――朝までのそれとは何かが違う気がする。私は流れに乗ってしまい、夏代に向かって一つ、俊介に向かって一つ頷く。
 私達はいよいよ離れへと入った。血生臭い匂いが、強烈に私の鼻の中へ侵入する。私は目を細めて、なるべくその光景に衝撃を感じないように努めた。
 柳道久はうつ伏せになっていた。此方に足を向けているので、どんなおぞましい形相になっているかは判別がつかない。背中はばっさりと斬られており、そこを中心点として、夥しい量の血液が四方八方に飛び散っていた。血ばかりでは無い。背中から淡い色の肉が傷に沿って剥き出している。それに、うっすらと見える白いもの――あれは、骨だろうか。
 私は、不思議なほど冷静に観察することが出来た。見る前の激しい動悸もすっかり治まり、なんだか死体に魅了されているような不思議な感覚すら覚える。
「驚いた」
 俊介は、小さな声で私に囁く。
「君は死体を見るのも平気なようだね」
 そんなことはない、と私は思った。心のどこかに恐怖心は潜んでいるはずである。しかし、それが姿を現さないのは――どういうわけか、私にも分からなかった。
「背後から斬られたようですね」
「うん、そのようだ」
 私の言葉に彼は頷く。まるで、探偵ごっこのようなやり取りである。
 俊介は部屋の奥へと進み、掛け軸の下にある"刀の無い刀掛台"を眺める。
「やっぱり無い。凶器は……二年前と同じ、か」
 ギシ……ギシ……と木板を踏みしめる毎に部屋中に悲鳴を響かせながら、私も部屋の奥へと進んでいった。すると、苦悶の表情を浮かべながら硬直している道久の顔が視界に入り、一旦は目を背けてしまった。あまりの衝撃に目は大きく飛び出ており、口元からはだらしなく舌を垂らしている。彼の特徴とも言える白髭は、鼻や口からの出血で真っ赤に染まっており、まさに、鬼のような形相である。
「いったい誰がこんなことをしでかしたんだろうな。道久さんは、柳家の主であるだけでなく、村の長でもあったのに」
 面倒なことになると云わんばかりに、俊介は眉を顰める。その言葉には、夏代も顔を伏せた。一体どういうことか。私は臆せずに尋ねる。
「誰かが、この村の長を引き継がなければならないということさ。基本的に、三家の主から選ばれることになっているから、僕と――道成くん、橘さんの中からということになるのかな。まあ、僕は遠慮しておくけどね」
「道成さん……?」
 私は不思議な感覚に包まれた。
(ああ、あの……)
 私の脳内のどこかに、その名前が潜んでいる、そして蠢いている。形容しにくいがそんな感覚だ。(――泣き虫……)私は知らず知らずのうちに、己の頭を押さえこんでいた。
「うん、柳道成くん。道久さんの息子で、今度うちの春香と結婚することになっている婚約者でね。うん? どうした? 血の匂いで気分でも悪くしたかい?」
 過去の記憶が脳内にぐるぐると渦巻く。
(泣き虫……泣き虫……)
 そうだ。やはり、私は道成という人物を知っている。ずっと昔、逢っている。遊んでいる。
(泣き虫……みっちゃん……)
 柳道成。彼の小さい頃の姿が――ぼんやりとではあるが――私の眼球の奥に現れた。
 この村での記憶は、ゆっくりゆっくりと蘇りつつある。私はそう確信した。


12

「みっちゃん、また泣いた」
 皐月は、道成の泣きわめく様子を見てケタケタと愉快そうに笑った。しかし、"もう一人の少女"は泣きじゃくる男の子の頭を撫でる。
「みっちゃん、泣かないで」
 皐月は、少女が道成の機嫌を宥めているのが、気に食わなかった。
「好きにさせておけばいいのに」
「そんなわけにはいかないよ。みっちゃん、可哀想」
 少女がきっぱりと皐月に告げると、皐月はくるりと彼らに背を向けた。
「ふぅん、私よりもみっちゃんのほうが好きなの。私、"弥生"に嫌われちゃったんだ」
「そんなことない」
 弥生と呼ばれた少女は、首を大きく振る。
「大好きだよ、皐月」
 弥生は皐月に向かって微笑みかけた。


13

 私達が柳道久の遺体に手を合わせると、廊下にはあの須藤がいた。須藤は私と目が合うと、何も言わずにただ軽く笑みを浮かべるだけであった。やはり、これも人の目があった上でのお芝居だろうか。私も、小さく頭を下げて初対面を装う。
「俊介様に、夏代様、それに――皐月様。どうぞ此方でお茶でも一服召し上がっていってください」
「やあ、そんなに気を遣って頂かなくても」
 俊介は苦笑を浮かべながら目を細める。すると、目尻の皺がくっきりと現れた。
「いいえ、春香様も、坊ちゃん……いえ、道成様もいらっしゃいますから。どうぞ」
 須藤は、道成の呼称を言い直すと、私達を茶の間へと案内した。
 離れと本館に通じる渡り廊下からは、青々とした青桐の葉が、池の水面に浮かんでいるのが見える。
 導かれた茶の間には、四人の男女が見えた。
 その中の一人の女は、忘れようにも忘れられない、包帯で顔をぐるぐるに巻いた女であった。柊春香――彼女はこちらの存在に気付くと、微かに唇を吊り上げた。よく見れば、彼女は何かを抱いている。おそらく――
 そう思いかけた時、"昨晩の恐怖"が脳内で勝手に再現される。
「ひっ……」
 私は少し短い悲鳴をあげる。
 そんな私を見て、彼女の傍にいた男は苦笑した。
「ああ、失礼。そういえば柊さんの家にお客様が来たと春香が言ってたな。僕は、柳道成。よろしく頼むよ」
 紳士的な男性と云うよりは青少年のイメージが強い。真っ直ぐな前髪がやや傾き加減に額に垂れ、眉毛はきちんと整えられ、目は釣り目で少し威圧的なものが含まれている。この人こそが、柳道成だった。
 すると、リビングテーブルの向かいに座った二人の男女が、此方に視線を注ぐ。
「おや、私はお客さんなど初耳だったな。よくもまあ、こんな辺鄙なところに来たものだね。私は橘慎一郎(たちばなしんいちろう)。そしてこっちが――」
 男が言い終わらぬ間に、隣の女は私に向かって一礼した。
「妻の橘芳江(たちばなよしえ)です。よろしくね」
 橘慎一郎は太っ腹な男だった。もちろん外見のことである。もしかしたら茶の間の温度と湿度を上げているのは、ほとんどこの人なのではないかと、失礼な疑惑を浮かべてしまう程、多くの面積を占領していた。面白いことに、橘芳江はまったく対照的であった。手首は折れてしまいそうに細く、頬も扱けている。しかし、お茶を飲むにしても、頭を振り向くにしても、瞬き一つでさえも、いちいちの動作に上品さが感じられる。輝く銀縁の眼鏡がいっそうそれを強調していた。
 これで、この空間の中にいる全員の名前を私は知ったことになる。もちろん、把握しているかは別として、だが。私はひとまずそれぞれに頭を下げた。
「さあ、座ろう。君も変に遠慮しなくていい」
 もしゃもしゃと髪を掻きながら、柊俊介は、気兼ねもなく空いている席へと腰掛けた。
 促されるままに、私も腰を下ろす。そして、その次に夏代が私の隣に座った。
「お父さんのことは、本当に残念だね。道成くん」
 一声を発したのは、橘慎一郎だった。まるまると太った中年男は、湯呑みを唇のもとで傾けながら、
「ふん、村の人間が驚くのも無理ないな。まさか、"アレ"で斬り殺されるなんて」
「橘さんも、無くなっているのに気付きましたか」
「アレ……?」
 私は自分でも思いがけずに、心の内で出そうとした声が、実際に喉を震えて通ってしまった。すると、隣にいた俊介が此方を向く。
「実は道久さんを斬ったと思われる日本刀は、この柳の屋敷に納められているちょっとイワクつきのシロモノでね。元々、あれは柳家に伝わる由緒正しい名刀らしいんだが――色々と、あったんだよ」
 そう俊介が言うと、すかさず道成が口をはさんだ。
「俊介さん、それ以上は外のお客さんに説明することでは無いでしょう」
「そうかな?」
 俊介はポリポリと後ろ頭を掻いて、素直に引き下がってみせた。その時、俊介は小さく笑みを誰にともなく向けた気がした。もちろん、その笑みの真意を私が分かるはずもなかった。
 橘慎一郎は、ようやく湯呑みをテーブルの上に置いた。
「まあ、とにかくだ。今回もまた"あの時"と同じように背中をバッサリ斬られている。もしかしたら、同一犯かも知れん」
「その可能性は高いでしょう」
 右隣の俊介は頷き、左隣の夏代は悲しげに小さく俯いた。
「おや、すまなかった。夏代さん。……私はそんなつもりで言ったわけではなかったのだが」
 慎一郎は心底申し訳なさそうに頭を下げた。ものの見事にてっぺんには髪が無かった。
「いえ、もう過ぎたことですから」
 夏代が小さく手を振った。隣で見ていても、溢れゆく悲しみを懸命に塞き止めている様子がよくわかった。
「しかし、これは以前にも話題になったかどうか覚えてないですが、どうして"背中から斬り殺されたのでしょう"?」
 俊介は、髭を剃りきっていない顎を撫でながら、疑問を呈した。すると、道成が溜息混じりに答える。
「前から殺されるほうが考えにくいと思いませんか。おそらく、物音を立てずに父の部屋に侵入した犯人は、そのまま父に気づかれずに、背を狙ったと考えれば合点はいく」
 私は感心しながら頷いてしまう。内容はともかく、その理路整然とした物言いは私も参考にしたいものだと思った。――しかし、俊介は納得しかねている様子だった。
「それは考えにくいなあ。君はあの離れに勿論入った事があるだろ。"あそこの床はギシギシと軋むんだ"。どれだけ忍び足で近づいてもバレるに決まっているじゃないか」
 確かに、私があの部屋に足を踏み入れた時も、ギシギシとしつこいくらいに音が響いた。あれでは柳道久も気づかないわけがない。
 そこに、橘芳江が入る。
「道久さんが、背を向けて逃げている最中に殺されたというのはどうでしょう?」
 口を挟んだ事に対して申し訳なさそうに、小声でそう言った。
 彼女の一言には俊介も頷いた。
「なるほど、それならば合点はいくかな。犯人は刀を持って、逃げようとした道久さんの背に向けて、一撃を浴びせた」
 私はこの茶の間の空気に、嫌悪を覚える。それは、柳道久が亡くなったことに対する悲哀よりも、"犯人は誰か"を推理することに重きが置かれているせいであった。そこには、犯人を見つけ出して仕返しをしてやろうとする復讐心を感じてしまうのである。私は、気分を変えようとぐいっと湯呑の茶を飲み干す。温くて丁度いい塩梅の茶は、いつの間にか乾いていた私の喉を十分に潤してくれた。
 ゲッ、ゲッ、ゲッ。
 それは突然だった。また、あの声が――昨晩よりもかなり大きく響くのである。
 ゲッ、ゲーッ、ゲーッ。
「あらあら」
 座っていた柊春香が、ゆっくりと抱いているその物体を揺すった。やはり音の原因はそれであった。そして、赤ん坊を包む頭巾が外れ、ゆっくりとその顔が顕になってくる。
「きゃああっ!」
 私は大きな悲鳴をあげてしまった。毛穴が一瞬で収縮し、得体の知れない寒気が全身を襲った。
 ――その赤ん坊の顔はまるで、しわくちゃであべこべだった。
 しかし、それは皺では無く――そう、血管だった。顔じゅうの血管が肌に大きく浮き出ているのである。
 目の位置は左右で大きく異なるのだが、その目は大きく前に突出して出目金魚のようである。しかし、黒眼は極端に小さい。そして、上唇と下唇もまるで別々の個体であるかのように噛み合ってなく、口が捻くれていて、その為に涎が止め処なく顎を伝って滴り落ちてくるのであった。
 ゲッ、ゲッ、ゲッ。
 そんな奇妙な音も、確かに赤ん坊が喉を震わせることで発していた。声を発するたびに、赤ん坊の口は裂けそうになるまで横に広がる。奇形――私はハッと思い当った。そう、この赤ん坊は重度の"奇形"を持った乳児なのである。
「どうしたの、皐月さん」
 赤ん坊の母親は、包帯で巻かれた首を傾げて、私の名を呼ぶ。私の動悸は激しくなっていた。
「ご、ごめんなさい……」と、私は本当に謝るしかなかった。他人の赤ん坊に対して悲鳴をあげるなど、礼儀も何もあったものではない。罪悪感はただただ募るばかりであった。
「気にすることは無いよ。初めて見る人は、大体そんな感じだ。実際僕も生まれた直後に見た時はびっくりしたよ」
 そう言ってくれたのは、春香の夫であり、赤ん坊――確か、護といったか――の父である道成だった。実際、春香は私の悲鳴など気にも留めずに、護を必死であやしている。その表情は、やはり母そのものだった。
「やっぱり――」
 俊介が独り言を呟く。それに反応したのは、すっかり湯呑みを空にした慎一郎だった。
「どうした、俊介くん」
「やっぱり、皐月さんには二年前の事件の事を教えておいたほうが良い気がするんです」
「いや、しかしね」
 慎一郎が面倒そうに眉を顰める。だが、俊介は相変わらず虱の飛びそうな髪を掻いて、慎一郎から視線を外し、私の隣にいる夏代を見つめた。
「聞かせてくださいませんか」
 私は痺れを切らし、ついにそう言った。なんだか今更秘密にしておかれるのも気分が悪い。それに、私のせいで皆の議論が進まないのも、自分自身がお荷物となっている感じがして嫌だった。
「皐月さんがこう言っていることだし、構わないかな?」
 夏代はこくんと頷く。そしてそれに遅れて、道成が渋々とそれを認めた。
 彼らの承認を得た俊介は、堂々と語り始める。
「あれは――二年前の夏。僕達の両親である柊道徳(ひいらぎみちのり)と柊静江(ひいらぎしずえ)は、ある晩に柊の屋敷で"同じように斬り殺されていた"んだ」
「背中を日本刀で斬られて……?」
「そう。どちらもね。そして、殺しに使われた凶器はやっぱり刀だった」
 事件は二年の時を経て再び起こった――ということか。殺害方法から二つの事件は同一のものだろう。しかし、なぜその柳家の名刀に、犯人は執着するのだろうか。私はその疑問をぶつけてみた。
「うん、それは二年前にも話されたんだが、実はその刀が血を吸ったのは、二年前が初めてじゃない。もっと以前に――その刀で血が流れたんだ」
 私は、俊介の重みのある声にぞくりと身体を震わせた。
「柳美登里(やなぎみどり)さんといってね。今回亡くなった柳道久さんの奥さんで、道成君のお母さんだが、その人がこの柳家の……ほら、離れに向かう廊下に池があっただろ? あそこの傍で自刃してたんだ」
「自刃……?」
 私は、俊介の言葉を繰り返した。
「自殺したんだよ。あの刀――そう、僕達の父さんと母さんを斬り殺す際に、そして道久さんを斬り殺す際に使われた凶器の刀でね。首の血管を切っていたんだ」
 室内はぞっとするほど沈黙が保たれていた。先程、気味の悪い声で泣いていた護も泣き疲れて寝ているようだった。
「どうして、自殺なんか……」
「僕も小さかったから全然覚えてないんだけどね。昔、柳の家に二人の姉妹がいたんだが、"彼女達は双子だったんだ"。だけど、村では双子は忌み嫌われるものとされている。そういう習わしでね。つまり、子が生まれてそれが普通でない生まれ方をした場合は、それは鬼が来る前触れと言われていて――」
 ドンッ。不意に橘慎一郎がテーブルを叩いた。
「そこから先は、それこそ客人に話すべきじゃないと思うね。俊介くん」
「おっとと、申し訳ありません。慎一郎さん」
 すぐに俊介は口を噤んだが、慎一郎の機嫌は明らかに悪かった。彼はさらに静まりかえるこの場を、チラリと一瞥して、
「さて、道久さんへの慰霊も済ませたことだし帰るか。――いくよ、芳江」
 芳江は、夫が壊した雰囲気を取り繕うようにペコペコと全員に頭を下げて、慎一郎の背にくっついて茶の間を出ていった。ドンドン、と廊下で大きな足音を響かせて歩くのは慎一郎だろう。須藤の「もうお帰りになられるんですか」という声が遠くから聞こえてきた。


14

「うっかりしていた。この話はご法度だったな」
 俊介が大きく舌を出して、苦笑した。それによって場の沈黙は打ち破られた。
「橘さんの意思を尊重して"双子の話"はこれで止しておくかな」
「賢明かも知れませんね。私も、亡くなった姉達の話をしたくはありません」
 そう言ったのは、道成だった。なるほど、その双子が柳美登里から生まれたということは、道成の姉にあたるのだ。
 またも場は沈黙した。母に抱かれて心地良さそうに眠る護の寝息だけが辺りに響いた。その時――
「俊介さん達の、ご両親が殺された時には」
 私は口を開いた。それぞれの視線が私に集まるのを、痛いくらいに感じる。
「その、物音とか悲鳴とかは聞こえなかったんですか? 誰かが侵入したわけ……ですし」
 若干の後悔すら覚える。もうこのまま話が途絶えてお開きでも良かったのだが、此処にきて余計な好奇心が生まれてしまったのだ。今回の猟奇的な殺人事件は、二年前の殺人事件と酷似している。そんな物語の中のような出来事に、不謹慎にも魅了されてしまったのかも知れない。
「物音がたとえ聞こえてたとしても、家族の誰かが敷地内を歩き回ってたって不思議じゃないわけだから、そんなの一々気にしてられないよ。悲鳴も――きっと聞こえなかっただろうな」
 俊介が顎を撫でながら答える。
「どうしてですか? いくら遠い場所に部屋があったとしても、刀で斬り殺されそうな状況で出す悲鳴は相当なものでしょうに」
 私は食い下がる。しかし、俊介は涼しい顔をしながら、じっと私を見据えた。
「"土蔵の中"なんだよ。僕らの親が殺されたのはね。分厚い漆喰と鉄板で閉ざされた蔵の中――どれだけ大きな悲鳴を出そうとも聞こえやしないさ」
 そこでピクッと春香の身が震えた。眠りも浅く、少しの刺激にも敏感な赤子は、また例のあの声で泣き出した。
 ゲーッ、ゲッ、ゲッ。ゲーッ、ゲッ、ゲッ。
「なぜ、土蔵の中に……?」
「それもまた妙な話なんだけどね。実はその……殺された父の手には、一枚の紙切れが握られてあったんだ」
 "慣れ"とは怖いものである。昨晩はあれほど怯えてしまった妙な泣き声は、全く私の心に届かなくなっていた。それは安堵と共に、この村に染まっていって、外界へは戻れなくなってしまうのではないかという恐怖もまた湧いてきた。
 私がそんな事を考えていると突如、柳道成が立ち上がる。私達は揃って彼を見上げた。
「悪いけど、僕もそろそろ失礼させてもらいます。春香、今日はどうする? 帰るかい?」
 道成は首を傾げて、彼女の包帯の隙間から覗かせる真っ直ぐな瞳を見つめた。おそらく柳の家に留まるか、柊の家に帰るかという選択なのだろう。
 春香は赤子の頭を撫でながら、軽く息をついた。包帯越しに漏れる吐息の音が、微かに耳に入った。
「私もこの子も、眠たくなってきたわ……」
 その言葉に道成は微かに微笑んだかと思えば、すぐに茶の間入口手前に畳んであった折り畳みの車椅子を広げる。そして軽々と春香を抱きあげると、車椅子に春香を乗せてあげた。
「では、失礼致します。まあ、どうぞくつろいでいって下さい」
 道成は私達に頭を下げると、車椅子を押して茶の間を出ていった。一同に道成と春香を見送った後、俊介は夏代のほうへと頭を近づける。
「夏代、あれ持ってるかい?」
「はい」
 小さな声で夏代は頷く。そうして彼女は自らのポケットから、一枚の折り畳まれた紙を取り出した。
「見てみてくれ、皐月さん」
 私は言われるがままに、文面を覗いた。

『コヲヤカレシオヤノウラミ ワスレルナ クラニテマツ』

 そこに書かれてあったのは無機質な片仮名の文章であった。
「子を焼かれし……親の恨み、忘れるな……。蔵にて待つ。つまりこの紙に従ってご両親は蔵に行き、殺された――と?」
「僕はそうだと考えているよ」
 俊介は頷いた。しかし、どうも腑に落ちないのは――。私はもう少し深いところまで掘り探ってみる。
「でも、なぜこんな怪しい手紙に簡単に従ったのでしょうか。この手紙の様子から、安易に出向いたら危険が生じてしまうかも知れない、という予測くらいはしたと思うのですが」
「うん、確かにね。でも――」
 俊介は湯呑みに入った茶を飲み上げて、続けた。
「それが"死者からの手紙"だったら、どうだろう? 子を亡くして、既に柳邸の池の前で自殺した、美登里さんからの手紙だったら――僕の父と母は、いても立ってもいられなくなったのかも知れない」
「ええ?」
「裏返してみるといい」
 俊介は周りを気にし始めた。きっと、橘慎一郎が完全に帰った事を確認しているのだろう。夏代はその紙を裏返して、そこに書かれたものを見せてくれた。
 そこには確かに、『ヤナギ ミドリ』と書かれていた。
「さっき言おうとしたこと――こっそり言ってしまうとね。
美登里さんの自殺は、十八年前に自分の子を殺されたことが原因なんだ。美登里さんの産んだ子供が"双子"だったということ、それは村では災いを呼ぶものとされていてね。そして――村がその双子を"焼き殺した"んだ。
 そして、その双子殺しの計画者が、柳道久、橘慎一郎、柊道徳の三人だった」
 無様にも、私は目を丸くする。呼吸が凍てつくのを感じた。
村を挙げての集団殺人――こんな事態が、今の日本に存在していただなんて。「村」というコミュニティは、私の考えているものよりもずっとおどろおどろしいものだと、たった今実感してしまった。
(そういえば……)
 昨日の電車の中で老婦人の発した「火事」という言葉。これは確か、昨晩も頭の中を過った気がする。そう、あれは柊春香の火傷を見た時のことだった。"柊春香の大火傷"と、"双子の焼死"。もしかしたら、これは結びつくのではないか。
つまり"柳家の双子の一人=柊春香"――突拍子もないことだが、これを思いついた途端、頭に雷が落ち、胸に熱いものが込み上げてきた。正直、非常に心臓に悪いものだと思う。よくある小説の中の探偵は常にこういった体験をしているのだと思うと、気の毒で同情すら感じる。
 しかし、"この考え"を口にする勇気は流石に出なかった。確証も無いのに、無闇にその家族に疑心を芽生えさせるなど出来るわけもなく、私は少し話を変えようとする。
「あの、どうして美登里さんは自殺だと言えるのです? それに、自殺の原因もなぜそこまで断定できるのですか?」
 そう言うと、ずっと沈黙を保ち続けていた夏代は、
「遺書」
と、一言。そして、ゆっくりと頭を傾かせて髪を靡かせながら、
「美登里さんの遺体の傍に遺書があったのです。封筒は血で真っ赤になっていましたが、中の手紙はちゃんと一字一句読めました」
「間違いないよ。そこにはちゃんと"村――特にあの三人に対する恨みが書かれていた"」
 俊介もそう言った。
 ようやく場には沈黙が走る。事態は何も解決の方向へと向かっていないのに、私達はすでに使える言葉を使い尽くしていた。
「さて、僕らもそろそろお暇しようか。どうだい、皐月さん。今日もウチに泊まっていかないかな。どうせ家には僕と夏代、それから手伝いのおばさんくらいしかいないんだし」
 例の如くポリポリと頭を掻いて、俊介は積極的に誘うのが照れくさいのか、私をチラチラと見た。
 私は喜んで頷く。断る理由も特にない。というより、今の私の拠り所など柊家の他に無いという感じだった。
「お兄様」
 夏代の呼びかけに、今まさに茶の間から出ようとした俊介は、ゆっくりと振り向いた。
「どうした?」
「私はもうちょっとしたら帰ります。皆さんの湯呑みを片付けておきたいので。須藤さんにも申し訳無いですし」
 私は慌てて「じゃあ私も手伝います」と言ったのだが、夏代は小さく頭を振って、私に笑顔を向けた。若干、温かみを感じる笑みではあるが、やはり依然として冷たい印象が強い。
 なぜかはわからない。だが、その夏代の眼差しが、私の心に烙印のように染みついた。


15

「やあ、話し込んじゃったせいで、もう日も暮れかけてしまったね」
 夕暮れの真っ赤な空の下、私と俊介は路を共に歩いていた。夏の夕暮れは、昼間の暑さと蝉の鳴き声のせいか、その静寂と涼しさが際立つ。柳邸を出た際にも、村人の群がりはまだ在った。それほどまでに、柳道久の死は村人にとって衝撃的なのだろう。私は群がりを脱する際に、何度となく腕を掴まれて事情を尋ねられたが、私はその度に首を振る。俊介も私を庇うように、自分の身で人の流れを防いでくれた。
「あの、俊介さん」
「なんだい」
「死体の――あの、柳道久さんの遺体はどう処理するのでしょうか」
 あの血肉が飛び散ったおぞましい死体を、家の者が処理するのだろうか。家の者の立場になったと想像しただけでも、鳥肌が腕にさぁっと広がる。しかし夏代が今朝言ったように、警察権力にこの村が頼らないとするならば、それが妥当なのだろうが。
「村中が総出で、中央に広場に運んで火葬するのさ。特に道久さんは村の長だからね。それはそれは長い儀式になるだろう」
 次いで彼は、柳美登里、柊道徳、柊静江の遺体も中央広場で焼かれたと言う。
「もしかして、双子も……?」
「いや、双子は違う。村の外れの、防風林を抜けたところの廃屋で殺されたらしい。今はもう焼け跡くらいしか残ってないけどね。きっと怖いんだろうなあ、村人もあまり近づかないところさ」
「怖い……?」
 災いの前兆と勝手に判断して、双子を殺めてしまう村民の狂気こそが、私は一番恐ろしいと思うのだが。俊介は続ける。
「まあ、一種の怪談話のようだけどね。廃屋に火をつける前、確かに双子を眠らせて中に閉じ込めたらしい。ところが――完全に廃屋が燃えたあと、黒焦げの遺体は"一つしか発見されなかった"ようなんだ」
「ええっ?」
 それをただの怪談話として私には呑み込めなかった。その情報のおかげで、私のある考えは確信に至ったからである。私は、もはや臆せずに俊介に打ち明けてみる。
「つまり、"双子のうちの一人は生きている"ということですか」
「わからない」
 俊介は頭を振った。私は構わずに、
「でも生きていたら、火傷を負っていることになりますよね。それは、その、つまり……」
 私の視線は定まらない。暫し、彼の目が丸くなっていることに気付かなかった。
 だが、俊介はすぐに口元を緩ませ、声をあげて可笑しそうに笑った。情けないことに、私は心臓が浮くくらいに驚いてしまう。
「ははん、もしや君は双子の一人が春香だって言うのかい? それは無いよ。春香が火事に遭って大火傷を負ったのは、"双子殺し"が終わった一年後のことだからね」
「え?」
「言って無かったかな。双子を殺した際の火事と、春香が被害に遭った火事は別物さ」
 そういえば――。
私は思い出す。電車の中の老婦人はこうも言っていた、と。
 ――"立て続けに"火事が起こったかと思えば、自殺も起こったの。
 私は大きく息を吐いた。これは安堵の為に違いなかった。もし双子の一人が春香だということが事実であれば、それは自動的に"今回の事件"を引き起こした張本人と疑わざるを得ない。
「春香が犯人だと思ってたのかい。でも、車椅子に乗った春香の状態を見ただろ。春香は歩けないんだ」
「そ、そういうわけでは……」
 私は、俊介が気分を害してしまったのではないかと不安になり、必死に手を横に振って見せた。しかし、彼の指摘は図星であった。
「春香さんが歩けなくなったのは、火事が影響だったんですか?」
「いいや、春香は元々下半身が動かないんだ。火事が起きるずっと前からね。自分の足で歩けないことにコンプレックスを感じていたのかも知れないな。内向的で自分の殻に閉じこもる子だったんだけど、火事の一件以来、さらにそれは酷くなってね。火事のショックからか、一時は"喋ることすらできなかった"」
 逃げられない中で迫りくる炎。確かに、その恐怖は計り知れないだろう。喋ることが出来なくなるのも、無理のないことだと私は感じた。しかし――昨日話した際の春香の印象は、確かに何を考えているかはわからないが、殻に閉じこもっているような感じでは無かった。私のような外来の客に対しても、物怖じせず接してもくれた。
 やはり、母になると人間は強くなれるのかも知れない。私は少し羨ましかった。
「君は高校生? それとも大学に通っているのかな?」
 私は暫し沈黙していたのだろう。気づくと、俊介は私のほうへ顔を向けていた。急に村の外の話へと変わってしまった為、私は大きな脱力感を感じた。しかし、それは至って普通過ぎる質問ではあった。少なくとも、在学中のアルバイト先では同僚に必ずと言っていいほど聞かれる質問である。
日常茶飯事に繰り広げられる問答を、異常と感じさせてしまう"鬼ヶ牙村"の遠い異国のような雰囲気。それは確実に、私を蝕みつつある。私は本当に帰れるのだろうか――このまま村に呑み込まれ、双子の、そしてその母の怨念の巻き添えとなって、死んでしまうのではないだろうか。
 私はそんな思考を休止させる為、一拍の呼吸を置いた。
「大学生です。今年で学部は卒業なんです」
「そうか。おめでとう」
 俊介が不器用に微笑む。
「そういえば、君はどうしてこんな辺鄙な村に来たんだい? まさかフィールドワークってわけでもないだろ」
 その理由を語ったことで、柳家の家政婦である須藤美枝は私を拒み、柊夏代は微笑んで受け入れてくれた。では、柊俊介は――。どうしても、私は全てを語ることを躊躇してしまう。
「言えない事情でもあると?」
「いえ、そういう訳では無いんですが」
 私は俯く。ヒグラシのカナカナカナ……と高らかに鳴く声は、私が成してしまった沈黙を何とか壊してくれる。私はその鳴き声の響く内に、ひとつ決心をした。
「あの、聞いてくださいますか」
 縋るような眼を、俊介に向けていたことだろう。私は少し長身な彼を見上げて、そう言った。
「何をだい」
「私がこの村に来た……その、目的です」
 私は、村に来てから今に至るまで、同じ話を二度した。しかし今から話そう三度目は、何か特別な意味を含んでいる――漠然とそんな気がしてならなかった。


16

 母は悩んだ。
 いくら家の為とはいえ、我が子を火の中へと落とすなぞ、人間のすべきことではない。しかし"そういう選択"を取らざるを得なかった。いや、そもそも母に選択権などなかった。村に、御家に、従わざるを得なかった。
 止むを得ない状況の中で、母の大事な子は、命を失くした。
(止むを得ない……? 止むを得なかった……?)
 自分の行動が正しかったか否か。それを母は自問する。
(ああ、愛しの……)
(愛しの……我が子は、もういない) 
 では、このやり場のない怒り、哀しみはどこへ向ければいいのだろう。母は自問する。
(復讐……)
(そう、復讐だ……)
 母の自問は、ある方向へと稲妻のように一瞬にして駆け巡り、そしてその雷光は一つの答えに至る。
 あの"殺し"を考えた元凶である柳道久、柊道徳、橘慎一郎。この三人に"子供の受けた苦しみ"を味わってもらい、いや、まずはその前に――……。
 母の眼は常に虚ろであった。しかし、その虚ろの中に在るのは、確かな殺意。
(止むを得ない……そんなはずは無い。やむを得ないはずが無い)
(殺す。殺してやる……)
 柳邸の中庭に冷たい一風が吹く。穏やかな池の水面に自らを映し、母はそのひどくやつれた己の容貌に、憂いた。


17

「そう、か」
 俊介は、私の話を聞くと、顎をいじりながら紅い空を見上げた。
「田辺美津子……聞き覚えは、正直言ってほとんど無いな。まあ、僕もその時は小さかったからね」
「そうですか……」
「しかし――皐月、ううん、皐月か」
 私の隣の男はそう言って、眉を顰めながら、鼻頭を親指の腹で擦る。何か――思い出せるのだろうか。しかし、私の期待とは裏腹に、彼の口からは何も核心を得ることはできなかった。
 そうこうしている内に、私達は柊邸につながる長い石段まで至った。
「そういえば、あの、春香さんが屋敷を出る時ってどうされているんですか。車椅子でこの石段を上り下りするなんてことができます?」
 私は、この過酷な階段に上り始める前に、尋ねた。
「いや、ちゃんとゆるやかな坂道があるんだよ。ただし細道だけどね。春香はそこを使ってる」
「じゃあ、どうして私達はこの石段を……?」
「"双子が焼き殺された廃屋の跡地が――その道の途中にはある"からさ。実は柳邸にも繋がっていて、こうやって行き来するよりもずっと早く往復できてしまう。だが、やはり村の人間は全員怖かったんだ。あの双子の殺害とその母の自殺が、ね」
 階段を上り始めて、私はさっそく息を乱した。
「春香さんは平気なんですか?」
「春香は平気みたいだ。元々そういうことに恐怖を覚えるような子でもなかったし、それに仮に怖かったとしても、下りる手段がそれしか無い以上は、それを選ぶほかないだろう」
「俊介さんは……?」
 私は彼の目を見つめた。「僕?」俊介は目を丸くして、人差指で自分を指す。
「僕は、やっぱり怖いな。子供だったから、双子の死に立ち会ったわけじゃないけど、現に僕の両親は刀で斬られているし、今回の騒ぎもある。それに――あの焼け跡からは何か"特別な空気を感じるんだ"」
「特別な空気……」
「ああ、もちろん気のせいなんだろうが。黒焦げになった木床や壁を見ていると、双子の泣きじゃくる声や、双子の母の怨恨の言葉が聞こえてきそうでね」
 俊介は目を強く瞑った。身体が小さく震えているのが、目に見えて分かった。
 私は彼の肩に手を置く。俊介に非は無い――そう思ったからに違いない。そう、責任は個人に向けられるでは無い。殺人を容易に許してしまうこの鬼ヶ牙村そのものが、村人を蝕んでいくのだ。
「俊介さんのせいではないと思います。それに……それに、きっと幽霊なんていません。誰かが柳美登里さんの名を騙って、俊介さんのご両親と、柳道久さんを殺害したんでしょう」
 私は声を張り上げた。何より、私がそうだと信じたかった。
 俊介は軽く口元を緩めた。その笑みに、私は何かとても恥ずかしい事をした気分になって、顔を真っ赤にしながら連なる足元の石段に目をやる。
「君は羨ましいな」
「羨ましい?」
「うん、何というか――そうだな、"この場所で育たなかったこと"が僕にとってはすごく幸福に映るんだ」
 この場所で育たなかった。ならば、この場所で育っていたならどうだったろう。私も平然と双子殺しの現実を受け入れただろうか。災いが来る前触れと本気で恐れ、双子を躊躇いも無く殺していたのだろうか。そんな疑問に至った時、かつてない極度の悪寒を、私を一身に受け止めた。
「君は世間一般の常識を持っている。僕達の常識とは違う常識を持っている。それが羨ましいのさ。たとえばこの村で起きた一連の事件も――おそらく、僕達ならば柳美登里の亡霊の仕業なんだということで諦めたかも知れない。もしくは、焼死したはずの双子の片割れの仕業と考えて、一生その復讐を恐れるかも知れない。
だけど君は、僕達とは一歩離れている。肺の中に溜まったこの村の空気が一番薄い人間なんだ」
 今度は俊介が私の肩に手を置く。肩から感じるその手の感触は、温かく、どこか頼もしかった。そして、私は彼の表情をそっと見た。髭も生やしておくがままの不精な印象は相変わらずだったが、目に込められたその力には、圧倒されるようだった。
 その時だった。
 木々のざわめきが一斉に鳴り響く。ぞわり、ぞわり。まるで村という生き物が動き出したようだった。そして、それを合図にしていたかのごとく、階段下から村人達の騒がしい声が響いて来たのであった。
「何かあったのかな」
 俊介の問いかけに、私は首を横に振るほかなかった。
 日はもう沈みかけ、空の紅色は次第に色調を失い、黒ずみ始めてきた時だった。夏の暑中を感じさせない冷たい風が、松の木の隙間から吹き流れ、私の短い髪を靡かせる。
「すまないが――先に帰っていてくれないかな。家にはおばさんがいるし、夏代も帰ってくるだろうから、心配ない」
 俊介は、今まで上ってきた石段の下を睨みつけるようにして、私に言った。
 私は額から汗が噴き出る思いがした。確かにもう柊邸の姿は見えてはいるが――刀で人を斬り殺す殺人鬼がこの村に確かに存在していると考えただけで、独りになるのが怖い。情けないようだが、それははっきりと自覚できた。いや、殺人だけではない。村の恐ろしい因習、春香の赤子の恐ろしい泣き声――様々な要素が組み合わさって、得体の知れない邪悪が自分の周りを支配しているように感じた。
「大丈夫だ。君が殺される心配など全くない。もし双子の死が原因で誰かが動いているとしたら――ね」
 私は思いの外大きく唾液を飲み込んだらしい。ごくん、という喉が波打つ際の音が俊介に聞こえたのか、彼は小さく苦笑を浮かべながらボリボリと髪の毛を掻いた。
「ああ、ごめんごめん。一言多かったかな」
 彼は両手を静かに合わせて謝罪の意を示すと、石の階段のど真ん中で踵を返して、勢い良く下っていった。思わず私は彼についていこうとしたが、流石にこの長い階段も終盤に差し掛かったという状況だったので、咄嗟に足が動かず、縺れてよろりと体を揺らせるばかりであった。
 運動の限界を超えて、情けなく震える我が足を、今日ほど恨んだことは無かった。


18

 石段をようやく上り終えると、よたよたと私は柊邸に近づいた。
 屋敷全体は夜の闇に溶け込んでいるかのような、漆黒の建築物と化していた。屋敷の門から玄関口に至っては、ゆらゆらと灯が揺らめいている。明るいうちには見ることが出来た見事な庭園も、夜はその美しさを忍ばせていた。
 私は玄関の戸を叩いた。
「おかえりなさいまし。……田辺様、ですね」
 ゆっくりと応対に出てきたのは、老婦人だった。
 老婦人といってもそのきびきびとした動作と言い、真っ直ぐな姿勢と言い、それほど老いを感じさせない。少し前に、俊介の言った言葉――家には僕と夏代、それから手伝いのおばさんくらいしかいない。そう言っていた。となると、彼女がこの大きな屋敷の雑多な仕事をすべて引き受けているということになるだろう。老いが体に回る暇など無いのかも知れない。
「あの、俊介さんはまた下の……あの、集落のほうに降りていかれました」
 私はおどおどしながら、やっとそう老婦人に言った。
「さようでございますか。さあ、早くお上がり下さい。お疲れでしょう」
 私が屋敷内に一歩足を踏み入れると、昨晩訪れた時よりも暗がりの色が濃いということを感じた。ぼんやりと浮かび上がる照明の光が、老婦人の薄い皺を照らしだす。
「あの、おば……おばさん?」
「はい」
 老婦人は背を向けたまま、声を発した。
「おばさんは、この家の人なのですか?」
 老婦人は振り向き様に、軽く俯きながら微笑を浮かべた。そして、そうかと思えば、彼女はじっと私の目を見据えた。
「いいえ――私は元々"下"に住んでおりました。ここに住み込みで働き始めたのは、随分前の話になります」
「どうして、ここへ?」
 私の声は少し震えていたかも知れない。発した後で気づき、後悔する。
 そんな私の拙い質問に、老婦人はまたも微笑む。その微笑が何を意味するのか、私には全く分からなかった。
「夫に先立たれたのがきっかけでした。子供も――実は私は子供を授かることのできない身であったもので」
 老婦人はそう言って、自らの下腹を擦る。そこには全く老いは感じられなかった。その代りに、女の私が言うのも変な話だが、成熟した女の妖艶さを感じる。ふと私は、彼女をおばさんと呼んでしまったことに、妙な違和感を抱いてしまった。
「そして私は、この柊のお屋敷を任されることになりました。当時は――そうですね、柊道徳様のお父上の、柊保徳(ひいらぎやすのり)様がこの家の主でいらっしゃいました」
 現在、この屋敷に住んでいるのは俊介、春香、夏代の三人兄妹。そしてその父母が、二年前何者かに殺害された道徳、静江。その道徳の父親、つまり三人兄妹の祖父が、この老婦人を使用人として雇った柊保徳。そういうことだった。
「おばさ……あ、お名前は……?」
 先に述べた違和感に耐えられず、私は彼女に名前を聞いた。
「私は、水谷佐智子(みずたにさちこ)と言います。田辺様は、ご旅行でいらっしゃったのですか? よろしくお願い致します」
 深々と水谷はお辞儀した。旅行という言葉を否定する余裕も無く、慌てて私は彼女の真似をする。
「さあ、どうぞ。お茶をお淹れ致しますので、お部屋でくつろぎください。中にあったお荷物はそのままにしてありますから」
 彼女はそう言って、私を部屋へと案内した。
 
畳の香りに包まれながら、私は湯気の立った茶の水面を見つめる。そして、ちらりと襖に立てかけられた自分の馴染みのリュックを眺め見た。一日見ていなかっただけで、ずいぶんと懐かしく感じられるものだった。
「申し訳ございませんね。退屈でしょう? もう暫くしたら夏代さんも俊介さんも帰って来られるでしょうから」
 水谷の声に、私は正座をしながらぴんと背筋を伸ばし、手を横に振った。
 暫しの沈黙の後、話しかける時機を見極めた末に、私はおずおずと水谷に対して、
「あの……さっき、俊介さんから村のことを聞きました。その、色々あったようで……」
「――そうですか」
 老婦人は小さくそう言った。彼女の表情が微かに翳る――少なくとも私はそんな風に見て取れた。そして彼女は私の顔をじっと見据えて、「では、柳さんの家の事も……?」と問うた。
「双子が、この村で殺されたようですね」
 私がそう言うと、彼女は実に深い溜息を零した。
「それも俊介さんから……?」
「はい」
 私は頷く。それから水谷が重い口を開くまで、それほど長い時間は要しなかった。
「あれは――悪夢でした。田辺様、誤解をなさらないでください。人を殺して平然としていられる人間などおりません。自らも人である限りは、人が死ぬことに対して恐怖を覚えるものです」
「それは、どういう……?」
「皆が忘れようとしていたのです。双子の件も――そして、異常な状態で生まれてきた命ある子を淘汰するという、残虐な行為も」
「ということは、今は、そういう行為をしていないのですね?」
「もちろんです」
 水谷は微かに語調を強めた。彼女は口に溜まった唾を飲み込んだ後、続ける。
「双子の死の一年後、今度はこの屋敷の離れが燃えたのです。村の人間は皆、"双子が鬼になった"と口を揃えて言いました。それからでした、村でそういう行いを禁じるようになったのは。災いを防ぐ為に殺した子供が、鬼になって災いを齎しては、元も子もない――きっとそういうことなのでしょう」
 橘慎一郎が、双子の話になると豹変する理由はそこにあったのか。私はふとその光景を思い出した。そして、俊介のあの言葉。
――やはり村の人間は全員怖かったんだ。あの双子の殺害とその母の自殺が、ね。
皆が廃屋を避けるのは恐怖だけではない。忘れたい、無かったことにしたいという気持ちが、彼らに存在しているのだ。
「失礼を承知でお伺いします。水谷さんは……その双子を殺す際には、立ち会ったのですか?」
 答えにくい質問である事は百も承知だった。しかし、この老婦人が双子殺しの場面に居合わせることは、何となく想像しにくいものだった。
 しかし、彼女はすんなりと頷いて、「はい」と言った。
「おそらく村の人間は、殆ど居合わせていたと思います。殺害ではなく、"儀式"――村全体がそう思っておりましたから」
「儀式……」
 その言葉に私は唖然とした。つまり、生贄の儀式といった感覚で、双子は殺された。燃え盛る家屋に閉じ込められ、焼殺された。私は憤りを通り越して、呆れ果ててしまった。
「田辺様がそういう表情をされるのも無理はありません。おそらく、外の人には考えられない事なのでしょうね。私達も今は――恐ろしく思っております。女の子の悲鳴、美登里様のあの狂ったような悲しみ……そして今回の道徳様と静江様、柳道久様の死。私はいつまでも胸に抱いているつもりです。そう、いつまでも……」
「その双子のお母さん、美登里さんはその時……?」
「居ませんでした。おそらく娘二人の死を見ていたくは無かったのでしょうね。須藤――失礼しました、柳さんの家の女中であります須藤美枝さんも、その時はいらっしゃいませんでした。悲しむ美登里様の傍で、お世話をなさっていたのだと思います」
 私はその時、この老婦人の鮮明な記憶に驚きを隠しきれなかった。きっと何もかも覚えているのだろう。そんな風にすら感じた。須藤美枝――私がこの村に来た際に、私に帰ることを促した柳邸の家政婦。素直に彼女の忠告を聞いておけば、良かったのかも知れない。知らぬ世界があっても良かった。故郷が無くても良かった。
 そんなこの村に入ってしまった後悔と、けれども、この村の全容をこの目で見てみたいという好奇心が、私の心の中に拮抗していた。
「私は子供がおりませんので、美登里様の本当の悲しみは、きっと永遠に理解できないのでしょう。しかし――災いが降るという迷信で、我が子を殺された理不尽さに対する憤りは、きっとあったはずです。それは私にも理解し得ます」
 もちろん、そうだ。私はすっかり温くなってしまったそのお茶を、一息に半分飲み干した。
「そして、その双子というのは……どんな子だったんですか?」
「黒髪で白いワンピースを着た、瓜二つの可愛らしい女の子。柊の家にはあまりいらっしゃらなかったのですが、印象はそういう感じでしたね。名前は……そう、忘れも致しません」
 老婦人はゆっくりと目を瞑る。

「"柳弥生と柳皐月――これが双子の名前です"」


19

 その夜、私の脳は休まる事無く、布団に寝そべりながら真上の照明を見つめていた。殺された筈の双子の遺体は、たった一つしか見つからなかった。すなわち一人は生きている可能性がある。そしてその双子の名前は、
(弥生と……皐月)
 私は未だに激しい混乱から抜け出せないでいた。
双子が殺されたのは、十八年前。私の記憶が存在するのは四歳から――今は二十二歳だから、"十八年前からということになる"。
(ということは……私のお母さんは)
 柳邸の池の傍で自殺していた、柳美登里。
 では、今まで母だと思っていた人物――田辺美津子は一体何者なのだろうか。一体いつから私の母は摩り替わったのか。何よりも、殺されたはずの私は"どうして生きているのだろうか"。
 このように、柳皐月が私だとすると、多大な疑問が私の思考に立ちはだかる。もしかしたら、単なる別人かも知れないのだが、仮にそうだとしても、私の脳は一人歩きをしているが如く、次から次へと様々な可能性にこの事実を結び付けていく。
 須藤美枝の、私に帰るように促したあの言葉。

 ――あなた、どうなるかわからない。

 あれは私が双子の片割れであることに、気づいていたのだろうか。二年前に柊夫妻が殺されたのは、双子の生き残ったほうの仕業――そんな風に村の人間が考えているとしたら、私が双子の片割れなどと言い触らせば、最悪の場合……
「殺される……?」
 全身が寒くなるのを感じる。怖さだ。これは明らかに恐怖から来るものだった。私は布団の中に身を包ませながら、固く目を瞑る。睡魔が私の全身に広がっていくことを、強く願いながら。



 私は妙な違和感に目を開けた。僅かかも知れないし、かなり多くの時間眠ったかも知れない。しかし、小鳥のさえずりは聞こえなかった。
 私は寝ぼけ眼を強く擦ると、心臓を掴まれる思いがした。――そこには誰かがいた。
「だ、誰……?」
 まだ日も昇っていない部屋の中は、真っ暗ではあったものの、確かに人影がそこに存在していた。私は咄嗟に体勢を整えようとする。しかし、それは叶わなかった。(ああ、これは……)手や足に纏わりつく何かに気づいた。
私は両手足を、身動きが取れないように縛られていた。
「誰なの!?」
 私はその人影に向かって、大きな声で問いかけた。誰かが助けに来てくれることを信じて。
 カツン。
 照明を点ける音がした。その瞬間、カッと強い光に照らされ、両目蓋がぐっと狭まる。
 ぼやけた視界が次第に鮮明になり、映し出されたのは――長い黒髪の女性。柊夏代だった。
「おはよう、皐月さん」
「夏代さん……一体何が……」
 私が夏代にそう問いかけた時、彼女は一言――ヒトゴロシ。
 そして――ヒトゴロシ、ヒトゴロシ。無表情の彼女の口から吐き出た言葉。
 その意味を理解した時には、遅かった。彼女は私の身体に跨っていた。
「夏代さん……! やめて!」
 私は強引に身体を捩じって、夏代を振り切ろうとした。しかし、思いのほか彼女は力が強い。まるで石になってしまったかのように、ビクともせずに私の目を睨み続けている。今まで感じた事も、そしてこれからも感じることは決してないだろうと思っていた、殺気。
(……殺気?)
 いや、それとは違う。殺気じゃない。何かが私にそう伝えた。
(じゃあ、これは何……?)
「今更命乞いをする気なの? 私のお父さんとお母さんを殺したくせに。今度は"自分のお父さんまで殺して"……。ねえ、昨日ここにやって来ただなんて嘘なんでしょ? 本当はあの焼けた山小屋に潜んで、ずっと復讐の機会を窺っていたんだわ」
 違う。違う。私は必死に首を振った。冷汗が肌の表面に浮かぶのを感じる。
 夏代の手には、照明が反射して眩しく光る――ナイフが握られていた。それを認識した途端、私の身体に負担をかける夏代の体重に、重みが増したような気がした。
「そんな……! 誤解です!」
「違わないわ。あなたは柳皐月だもの。あなたは双子の一人だもの。私のお父さんやお母さんを殺すとしたら、あなたしかいない。他に誰もいないわ」
 夏代の声は、親を殺された憎悪など感じさせない――どこか冷淡としたものだった。それがまた私の恐怖に油を注ぎ、そして一方でキラキラと反射の具合で光るナイフに、どうしても目がいってしまう。
 そのナイフの刃はゆっくりと私に近づく。勢い良く振り下ろされたわけではない。私は犬のように短い呼吸音を、部屋中に響かせる。小さな胸を心臓が突き破って出てくるのではと疑うほどに、私の動悸は最高点に達していた。そしてその刃が頬に着くか着かないかのところで、私はギュッと目を瞑った。
 もうダメだと思った。私は死ぬのだ――そう、確信した。
(ああ……)
 痛みは無い。"刺さってはいない"。
 その代り、私は唇に何か温かいものを感じた。温かく、微かに濡れた極めて不快なそれ――。うっすらと目を開けると、それは夏代の唇だった。
 様々な思いが頭の中に入り乱れるのがわかる。しかし、言葉にならない。口を開いても、声が出なかった。私の視界を遮る夏代の頬の小さなほくろが、なぜか強く印象に残る。そして酔ってしまうような香りが、私の嫌悪感を更に強まらせ、髪の毛を振り乱しながら必死で首を振って、その唇を払おうとする。
 それでもなお、夏代の唇は執拗に私のそれを責める。次第にぬるっとした感触が這っているのを感じた。蛇のような舌が、私の口を無理矢理こじ開けようとしているのであった。
「や、やめて……! こんなの、嫌!」
 ようやく機能した声帯を思い切り震わせて、私は強く体を強張らせ、夏代をとにかく拒んだ。ドロッとした唾液が私の咥内へと流れ、気管支へと入り強く噎せてしまう。なぜだろう。なぜ、殺さないのだろう。
(これは……この眼は、殺気じゃない)
 私はそこでようやく気付く。夏代の、この女の持つ異常性愛に。彼女の眼に燃え上がるのは"情欲そのものだということに"。
 それを理解した途端に、私の身体は、凄まじい悪寒に苛まれる。このままでは何もかも犯されてしまう焦りと、どこかで諦観に落ち着いてしまう絶望感。それでも私は無我夢中で馬乗りになった夏代を除けようとした。
 私が必死に身体をくねらせ、脱しようとした瞬間――右頬に強い熱を感じた。
(痛い……っ!)
 夏代はぎろりと私を睨みつけながら、平手で私の頬を勢いよく打ったのである。それは一回限りのことでは無かった。続けて再度手を振り上げて――左頬を一発。そしてまた、右頬を一発。次第に意識が朦朧としていく中で、認識できるのはそこまでだった。しかし、殴られているのはわかる。私は殴られ続けている。
 嫌に鉄の味が口の中に広がり、温かい液体が舌に絡みつくのも、辛うじてわかった。咥内を切ってしまったのだろう。これは紛れもなく出血であった。
 そして、私の口の端から顎にかけて鮮血が一筋流れていくと、夏代はそれに愉しそうに舌を這わせた。不気味な肉色のそれに私の血が浸みこんでいくのを、私に見せつけながら。
 一体何が彼女をここまで変えたのか。父母を殺された憎しみだろうか。それとも潜在的に備わったその異常な嗜好によるものなのか。
何にしても、私は悔しかった。こんなところで単なる誤解で死んでいくなんて。こんなことならば、故郷など無理して探さなくても良かったと思う。幼き頃のことなど気にもかけず、京都でのんびりと生きていく選択肢だってあったのに。
「今度暴れたら、刺してあげる。あなたが死んでも誰も困らないわ。あなたが双子と知ればきっと私が殺さなくても、いずれ誰かが殺すもの」
「私は、何もしてない!」
 余りの恐怖に目に涙を一杯溜めながら、精一杯私はそう言ってやった。私が殺される理由など無い。私は何もしていないのだから。
未だに服従しようとしない私は、彼女の逆鱗に触れてしまったのだろう。彼女は強く拳を握りしめ、勢い良く私の頬へとそれをぶつけた。
 流石に、私の意識はそこで途絶えた。


20

 視点は「私」を離れ、過去のある場所へと飛んでいった。京都府立医科大学附属病院の一般病舎の病室。そこには、美津子は虚ろな眼で病室の天井を見つめていた。
 テレビを見る気力も無ければ、食事に手をつけようともしない。何もかもを放棄してしまった一人の女は、太陽に照らされた真っ白な寝台に横たわり、唇を小さく動かしては深く目を瞑る。
 皐月……。美津子の興味の対象は、最早それしか無かった。たとえ自分の実の娘で無かったとしても、彼女にとって"田辺皐月"はやはり娘にほかならなかった。美津子は娘が、自分の為に懸命に頑張ってきたことを知っている。身体も心も決して強い子ではないが、大学で多くを学び、そして弁護士という職に就くことによって、美津子を喜ばせようとしていることを。
 だからこそ、彼女は娘に対しては気丈な面しか見せなかった。これ以上心配を増やさない為にも、常に微笑み、常に楽しそうにして、健康そのものを演じなくてはならない。死を間近に感じているとしても、それを臭わせてはならない。
 親というものはそういうものだと、美津子は思っていた。
「美津子さん」
 病室の戸が開いたことに気づかず、美津子はその声でやっと来客の存在を認識する。
「……久しぶり、ね」
 美津子は蚊の鳴くような小さな声を発した。微かに目が潤んでいた。
「気分はいかがですか?」
 この問いに美津子は答えなかった。それは良いとは決して言えないものであったからだった。客人はベッドの脇に立てかけてある写真――田辺美津子と田辺皐月が笑顔で写っている――を眺めると、
「今は何歳ですか。もう大きくなったでしょう」
「……二十……二よ。立派になったわ……」
 客人は美津子の手を握った。病魔に侵されて肉もほとんど無い真っ白なその手は、美津子の若き時代を知っている客人を驚愕させる。健康で血色の良かったあの美津子はもういない――そう、感じた。
「"双子"はもう赦されました」
 客人は、美津子の手をそっとベッドに置くと、呟くように小さな声で言った。
「戻ってきても大丈夫です。あの子の故郷は――あの子を受け入れますから。あの日の行動は、今や誰もが間違っていると思っています。美津子さんも早く元気になって、村に――鬼ヶ牙村に戻ってきてください」
 美津子の眼からは涙が零れおちた。それはゆっくりと頬を伝い、白いシーツに染みを作る。「ええ……」唇が大きく震えて、懸命に喉を震わせる。
「必ず、あの子と二人で……」
 客人は微笑む。そして、それに応じて美津子も微笑む。
 その日の晩に――田辺美津子は息を引き取った。医者と看護婦に看取られながら、実に幸せそうな表情で、彼女は眠っていったのだ。


21

 私は勢い良く目を開ける。汗が一気に噴き上がった。刺されても切られてもいない。どうやら死んではいなかったようだった。縛られていた手足も自由になっている。夏代の怒りや様々な欲望は、治まったのだろうか。
 いやに静かな、小鳥の囀りだけが聞こえる朝だった。
 ふと自分の身体を見ると――寝巻が乱れていた。帯も外されている。襟が大きく開いて、私の決して大きくない乳房がすっかり露になっていた。やはりあれは夢ではなかったのだ。私はどこまで夏代にされたのだろう、と不安になりながら天井を見つめた。
(痛い……)
 頬を何気なく触ると、顔がピリッと痺れる。おそらく腫れあがっているのだろう。あれほど何遍も叩かれたのだから、不思議ではない。
「夏代さんは……」
 私は布団からゆっくり上体を起こす。
 心臓が大きく上下するのは、ふっくらとした掛け布団が遮って見えなかったものが見えたからであった。
 ――夏代だった。
 それは何も身に着けていない文字通り裸体のまま、うつ伏せに、床に頬をつけていた。
 私はよろよろと立ち上がった。
「ひっ……!」
 眼球が飛び出そうなほどまでに、私は驚愕してしまった。夏代の眼は、腐った魚のように酷く濁っている。そして、うつ伏せになっているその肉体の背からは、おびただしい量の血が漏れ出しているのだ。
 苦悶の末に果てたことを窺わせる、その鬼のような表情は、平生では決して見ることは無いものだった。また一方で、若く豊満な肉体は無残にも床に投げ捨てられ、女の象徴ともいえる艶やかな長い髪の毛が、普段の清楚な印象とは考えられないほどに、散らかっている。そして、背中を綺麗に割られたことで、剥き出しになった桃色の肉。美と醜――それは奇しくも、バランスの整っているように私に感じられた。
 何ということだろう。"今度の犠牲者は、柊夏代だったのだ。"
(ああ……ああ……)
 不思議なもので、それまでは何とも感じなかった部屋の異臭も、室内に死体があると認識した途端に、それは執拗に鼻に纏わりついた。
 私は思わず鼻を摘む。これからすべきことを求め、必死に頭を働かせた。
 一刻も早くここから逃げ出したい。大声を出して助けを求めようか。しかし、いざそう思い至ると、なかなか声は出てくれなかった。眠る前は生きていた人間が死体となっている――そのショックは、予想以上に大きかった。

「田辺様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
 廊下から障子戸越しに声が聞こえた。水谷の声だった。私は咄嗟にその方向へと目を向ける。何も知らぬ老婦人は、呑気にもゆるりと障子戸を開いた。
「う、あ……ああ……」
 情けないことに、嗚咽を漏らすしか無かった。この状況を説明する術も無いし、何より様々な激情が頭の中で複雑に絡み合って、今何かを言っても、それは感情的にしかなり得ないと思ったからだった。
「――田辺様?」
「……な、夏代さんが……」
 水谷は、夏代のなれの果ての姿を見た。咄嗟に手で口を覆い隠す。
「こ、これは一体……」
 じわじわと水谷の皺が濃くなっていくのがわかる。言うなれば、今まで見ぬふりをしてきた"老い"という魔物が、ここにきて水谷の女の肉体を蝕んでいっているような――少なくとも、昨晩に感じた若さは全くそこには無かった。
「どういうこと、なのですか。これは――……ああ、なんという……!」
「わ、私も何が何だか……」
 それが正直な感想だった。
 廊下から次第に大きな足音が響いた。嫌な臭いには人間は敏感になるもので、俊介も何かただならぬ予感を感じてここに到ったのだろう。
「皐月さん……! 夏代!」
 俊介の、私への呼びかけに、水谷老婦人が過剰に反応した。
 最早隠し通すことはできない。いや、元よりこの二方には隠すつもりも無かった。私の故郷が此処であること。私は双子の片割れである柳皐月であるかも知れないということ。そして昨晩、夏代にされたこと。
 もし双子の片割れと知れたことで、俊介や水谷が私を殺そうとするなら、それはもう己の選択を悔いるしか無い。この村に足を踏み入れた時点で、鬼の胃袋に自ら進んで入っていくようなものだったのだ――と。


22

「成程。君が双子の一人、柳皐月――」
 俊介は剃ろうともしない顎の無精髭を撫でながら、そう呟いた。隠そうとしているみたいだが、目を真っ赤にしている。無理も無い。実の妹がこんな無残な死に方をしているのだから。
 私は、俊介のその気丈でいようとする姿勢が、とても痛々しかった。
「まさか、あの双子の一人が本当に生きていらっしゃるなんて……」
 眉を顰めながら、顔をした半分を手で覆っているのは水谷だった。
「……はい」
「しかし、どうやって……?」
 ずいっと顔を近づけて、水谷が私に尋ねた。信じられないという表情を浮かべている。
「私も、よくはわかりません」
「しかし四歳までの記憶がすっかり抜け落ちているというのは、その"双子殺し"が原因かも知れないね」
 俊介が、妹の――夏代の身体に、生前身に着けていた着物を被せた。背中の刀傷によって被せた着物がじんわりと紅く染まっていく。堪えきれなくなったのか、俊介の眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「あの、私が双子の一人だとすると……私の母親は柳美登里さんということになるんでしょうか」
「君のお母さんの名前は……?」
「田辺――田辺美津子です」
 私がそう言うと、俊介は水谷に目を遣った。「聞き覚えはあるかい? おばさん」
 水谷は、私の母の名前を声には出さずに、唇の動きで繰り返した。ゆっくりゆっくりと、老婦人はその膨大な記憶の糸玉を解していく。
 私と俊介は、それを黙って見つめていた。
「ああ……!」
「何か、わかることでも?」
 俊介は、間髪を入れずに確認した。
「ええ、田辺――田辺美津子! 実はずっと気になっておりました。皐月さんの田辺という苗字を」
「それで? 一体、田辺美津子さんってのは誰なんだ?」
 水谷は小さく何度も頷いて、
「柳邸の家政婦です。"田辺さんは須藤さんと共に、双子の一件が起こるまでは働いておりました。"ところが、あの一件が終わってから田辺さんは忽然と消えてしまったのです。柳の奥様は、田辺さんの実家の関係で暇を出したと――そう仰っていたのですが」
「家政婦……か。その田辺さんが、皐月さんを娘としてこれまで育ててきた――と」
 田辺美津子――私の母だと思っていた人物は、柳邸の家政婦だった。これには私も脱力せずにはいられなかった。あの献身振り、私の為ならばどんなことでも辛抱するあの強い母は、実の母では無かったというのか。
 そんなことは信じられなかったし、信じたくも無かった。
「つまりこういうことかな。双子殺しが行われた際、密かに美登里さんは娘達を助けるために、燃える家屋から強引に双子の片割れである君を救って、当時の家政婦だった田辺美津子に君の一切を任せた。……ううん、どうにもその経緯が曖昧だな」
 俊介は自分の頭をくしゃくしゃと揉みながら、唸った。
「でも、"どうして私だけだったのでしょう……?"」
 私は頭の中にふっと浮かんだ疑問を、そのまま何も介さずに口へと通した。
「双子――私と、弥生さんがいたとして、私だけが助かって弥生さんが焼死したんですよね。何故でしょう?」
「燃える家屋の中で、君を助けるので精一杯だった、と考えてもおかしくはないだろうね」
 俊介の提案した答えで、私は一度頷く。確かに理は適っているかも知れない。しかし、それだとしたら、燃える家屋で焼け死んで屍になっていたのは、自分だったのかも知れないのだろう。私は突き刺すような悪寒を体に覚えた。
「しかし、そんなことが……ああ……」
 水谷は狼狽する。
「そんな事実があったなんて思いも致しませんでした。私は、田辺さんは美登里様が追い出したとばかり思っておりました。道久様がああいうお方でしたから、きっと美登里様はそれでお怒りになって……」
「つまり、道久さんは家政婦の田辺さんに手を出していた?」
 すっかり骨の髄まで老婆になってしまったかのように精気も無く、老婦人は頷いた。
「もちろん、田辺さんも須藤さんも、美登里様の前では関係を否定しておりましたが……。村の女衆にまで手を出しておりましたので、美登里様は信じるわけも無く常にお怒りでございましたね。
 須藤さんにしても、妊娠の噂が村中に広まったおかげで、彼女に対しては特別つらい仕打ちをなさっていたそうでございますから」
「ふうん……しかし、そうなると、ますますわからなくなってきた」
 俊介はその場で座り込んで、頭を抱える。
「この殺しの目的が双子の復讐なら、それに該当する犯人は――失礼だけども、皐月さん、君しかいないということになる。だが、君が犯人と言うのは考えにくい」
 私はその言葉に頷いた。確かにこの状況では、私が犯人であるという考えが一番妥当に思われる。しかし、私はやっていない。それだけは自信を持って断言できる。
「おそらく、夏代もそう考えたんだろう。君が双子と知って、訳も分からず君に迫った」
 胡坐をかいている俊介は、チラリと着物を被せられた夏代を見た。
 俊介は今、どんな気持ちでいるのだろう。私はふと考える。姉妹などいない私であったが、今突然に姉妹がいたと伝えられ、そしてその姉妹が既に焼け死んでいると告げられても、衝撃は少なからずのものがあった。況や、俊介にとって夏代はずっと見知ってきた妹である。
 こんな無残な姿で床に倒れている妹に対して、思うのは何だろうか。怒り、憎しみ――もしかしたら、その犯人を殺してやりたいという復讐心。言葉であれこれと思い浮かべるのは簡単だが、その実は決して私には理解できないのだろう。
 私は最早怒りも苦しみも生まれない。ただ、疑問ばかりが頭の周囲に浮いているような感覚だった。なぜ、私だけを助け、弥生という人物だけを見殺したのか。弥生を助け、私を見殺しても良かったのではないか。もしそれが、やむを得ない事態に巻き込まれた結果だとしても、それは至極理不尽に感じられた。
 なぜ、片割れの私だけが生き、片割れの弥生が死んでいくのか――。その疑問に至った時から、ある可能性を閃くのに大した時間はかからなかった。
「俊介さん、本当に――本当に、弥生さんは死んでいたのでしょうか」
「黒焦げの焼死体は見つかったというけど、どうなのかな? おばさん」
 頬を掻きながら、俊介は水谷を見上げる。
 水谷は神妙そうな面持ちで、小さく頷いた。
「弥生さんだったと思います。小さな背丈の少女の遺体でしたし、おそらく間違いは無いかと」
「でも、小さな少女の遺体であったというだけで、絶対に弥生さんと言う証拠は無いんですか?」
 私は食い下がった。そこまで突っ込まれたことが、ひどく心外だったのだろう。目を大きく開いたまま水谷は固まってしまった。
 ほう、と俊介は口を丸くして、
「皐月さん、君は弥生さんが生きていると?」
「絶対そうだとは言えませんけど……。私、信じたいのかも知れません。私だけ生き延びて、片方が死んだなんて」
 私はそう言った後に俯いた。俊介の眼を見ることが出来ないのは、妹の遺体を目の当たりにした俊介のことを考えない、無神経な言葉である事は、自覚していたからであった。
「いや、面白い意見かもね」
 俊介は立ち上がり、私の肩をポンと叩いた。
「しかし――、仮に生きていたとして、感動の対面とはならんかも知れないよ。もしかしたら一連の事件の犯人であるという可能性もある」
「わかっています。それに私が犯人である可能性があるということも」
 私は首を縦に振った。双子の一人である私が疑われないはずが無い。私がこの村に訪れた途端に、柳道久が死に、そして私に危害を加えようとした夏代も死んでいるのだから。
 私が第三者であったら、すぐにこの私を犯人として告発していることだろう。
「しっかりした子だな。でも、僕は君を犯人とは見ていないよ。君は……推理小説やドラマで言うならば、アリバイってもんがあるからね」
「アリバイ?」
「――君と一緒に帰った昨日の夕方、僕はひとりで下へと様子を見に行っただろう? あの時、橘邸で橘慎一郎が殺されていたんだよ。背中から刀で何回も刺されていた」
 ガタガタ、と風で障子戸が軋む音が、やけに室内に響いた。


23

「僕はあの時、初めて逢ってから石段を登り終える手前まで、君を一度たりとも見なかった事は無かった。つまり、君に殺しは不可能だったということさ。夏代は、橘さんの件を知らなかったから君が犯人だと勘違いをしたみたいだけどね」
 あの日、犯人は橘慎一郎に次いで柊夏代を殺した。もし、まだ見ぬ弥生が犯人だとするなら、慎一郎、道徳、道久を殺すのは理解できる。双子殺しの計画者であるのだから。
 しかし、夏代を殺すのは何の理由があってのことだろうか。
(私を助けた……?)
 双子のもう一人、柳弥生は、姉妹の私を助けてくれたというのか。だとするならば、弥生は早くから私が"柳皐月"であることを知っていた事になる。
(もしかしたら、私が昨日と今日で逢った人間の中に……弥生が?)
「ですが、仮に弥生さんが生きているとして、柳邸に忍び込んで刀を盗んでいくなんて真似ができるでしょうか」
 私の思考を遮ったのは、水谷だった。
 そうだった。問題は――今、刀がどこにあるのか。
「俊介さん」
 私が声をかけると、彼は首を傾げる。
「二年前の事件、その、俊介さん達のお父さんとお母さんが殺された時、凶器の刀は見つかったんですか?」
「ああ、柳邸の刀掛台に納められていた。ご丁寧に血がべっとりと付いてね」
 私は肩を強張らせる。彼はつづけた。
「ちなみに、今回の事件が起きてからは、まだ刀は見つかっていない。また犯人にとって全てが片付けば、もしかしたらまた柳邸に返されるのかもね」
 現在は犯人が刀を持っている、もしくはどこかに隠している。ほぼ間違いは無いだろうと思った。
「全てが片付けば……まだ、片付いていない。そういうことでしょうか? 双子殺しを企てた例の三人が死んだのならば、犯人の目的はもう……」
 私は半ば独り言のように呟く。しかし俊介は一字一句聞き洩らすことなく、頷いた。
「まだ、終わっていない――そういうことだろうか」
 私は眼差しを彼に向けた。彼はずれた眼鏡を直して、もう一度妹の姿を見た。その兄の姿は見ている此方側としてもつらかった。水谷婦人も、口元を手で押さえながら、今は微動だにしない無力の肉体を眺める。
 彼女は、この柊家の家政婦として何年も世話をしてきたのだ。夏代を可愛い娘のように思っていたのかも知れない。子供のいない水谷婦人には、なおさらそんな気がした。
「とにかく、須藤さんに逢ってみよう。僕も聞くのは怖いが、こうなった以上は"双子殺し"の詳細を聞くほかない」
 私は頷く。こういう時の俊介は頼もしく見えて仕方なかった。おそらく街で彼のような人間を見かけたら、きっとすぐに脳内から消えていくのだろう。身なりも整えられて無く、どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
 しかし――人間は、それだけでは無い。外見を凌駕する内面を、私は生れて初めて感じたかも知れない。
 須藤美枝に聞かなければならないこと。
 それは、双子殺しの裏で柳美登里が何をしていたか。そして、何故か生きていた私は、どうして田辺美津子のもとへと引き取られたのか。
「もしかしたら、君の過去が見つかるのも間もなくかも知れない。四歳より前の、闇に包まれたその過去が」
 俊介は障子戸を勢い良く開いた。そして私は彼の後ろへと付いて行った。


24

「俊介さん。それに……皐月、ちゃん」
 私と俊介はそろって頭を下げた。箒を手に持ち、柳邸の門前で落ち葉を片付けていた須藤美枝は、聞かれるだろうことを察しているのか、あまり良い表情とは言えなかった。
「須藤さん、聞かせては頂けませんか」
「何を……ですか?」
「双子の件です。その時、美登里さんは何をしていたのでしょう? 今まではこの手の話は禁句とされてきましたが、最早そうは行きません。二年前の僕達の父母に始まり、今回は道久さん、橘さん、妹の夏代までもが殺されてるんだ」
 俊介は物怖じせず、一歩一歩須藤に近づいて尋ねた。
 彼女は観念したかのように視線を地面へとぶつけると、大きな溜息をついた。
「……このような場所で、申し上げるわけにも参りません。どうぞ、中へお入りください。皐月ちゃんも、どうぞ」

 通されたのは柳邸の、須藤の部屋だった。
 須藤はやかんの湯を急須に注いで、くるくるとそれを回すように揺らし、茶葉と湯を混ぜ合わせると、私と俊介と須藤のそれぞれの湯呑みに、茶を注いだ。
 果たして、彼女は口を開き始めた。
「奥様は、双子のお嬢様方を死なせることにはもちろん反対でした。最後の最後まで道久様に懇願しておりましたが、ある時それはついに始まったのです。三歳、四歳くらいになる弥生ちゃんと皐月ちゃんを、昔貯米庫として使われていた廃屋に閉じ込め、村人は火を放ちました。
 しかし、奥様は秘密裏に、私と田辺さん……失礼しました、当時いた家政婦で……」
「ええ、分かってます。この子の育ての親――ですね?」
 俊介はチラリと私を見た。
「その通りです。私と田辺さんは奥様に命じられました。『私の娘達を助けなければならない』と。村に背く行為ではありましたが、私達は、その……当時、奥様には頭があがらなかったのです……」
「それは……単に、主人と家政婦の関係だったから、ですか?」
 俊介の問いに、須藤は頭を横に振った。
「いいえ、道久様のことです。……私や田辺さんも、当時は若かったものですから、道久様に迫られることも多々ありました。やがては肉体関係も……」
 須藤はそこまで言って、茶を啜った。
「美登里さんはそれを知っていた?」
「……知っていたと思います。私達にきつく当たる事さえありました」
 俊介は、ふうん、と鼻を擦った。
「実際にはどうやって助けようとしたんです?」
「死角になっている廃屋の裏戸から入りこんで、私と田辺さん、奥様で力づくで戸を壊しました。そして、助けた双子の一人を田辺さんに預けて……奥様は『急いで村の外へ出なさい。この子を連れていきなさい』と言いました」
 今度は須藤が私を見た。助け出され村の外へと連れられた双子の一人――それはやはり、私だったのだ。
(……思い出した)
 それが事実と判明した時、辺りの空気は十八年前のものとなった。
 ぐいぐいと乱暴に腕を引っ張られながら、田辺美津子と共に村のトンネルまで走った。息が続かない。そして軽いもので済んだ火傷は、じんじんと私の身体に痛みを残していたのだった。

――さあ。皐月さん。いらっしゃい。

 この村に来る際のトンネルで、ふと脳裏に過ったこの言葉は、田辺美津子のものだったのだ。
(……でも、待って)
(私の名前は……何?)
 "皐月さん。"そんな風に田辺美津子は言った。(けれど……)私の名前は、本当は――そうじゃない。

(私の名前は……)
(……"柳弥生")
 私は目を剥いた。
 "田辺美津子は間違えたのだ。私のことを――柳弥生を、柳皐月だと。"
 では、なぜ間違えたのだろうか。私を柳皐月であるとどうして断定したのだろう。私は悩む暇も無く思いついた。いや、思い出した。
(……あの夢)
 夢。そうだ。私と、私に似た少女が笑い合っていたあの夢。
 少女は私にハンカチを渡した。あれは決して夢想の出来事ではなかった。頭の奥底に潜んでいた"幼少期に起きた事実"だったのだ。
 "つまり、少女の名前入りのハンカチ――サツキという名前の入ったハンカチを、弥生である私が貰ったこと。"これが田辺美津子の誤解を生む原因だったのだ。
「……た? 皐月さん、どうした?」
 ハッと気づくと、心配そうな表情を浮かべながら、俊介は私の顔を覗きこんでいた。
「大丈夫かい?」
 私は目を丸くしながらも、なんとか頷く。そして今思い出したことを全て、彼と須藤に語った。
「田辺さんは……双子の名前を間違えたということか」
 俊介がそう言うと、須藤もまた頷く。
「お嬢様方は本当に似ていらしたので、顔だけでは判別がつかなかったのは、私も同じです」
「しかし、須藤さん。これで弥生さんが助かったのは分かりましたが、皐月さんはどうなったのですか? やはり……手遅れだったのですか?」
 俊介は声量を抑えて、尋ねた。私の気持ちを図ってくれているのだろうかと思うと、自分が情けない気持ちになってくる。
 しかし、須藤の答えは、私達の厳しい予想とは全く別のものだった
「いいえ」
 須藤は小さく息を吸って、続ける。
「皐月ちゃんも、助かりました。ひどい火傷を負いましたが……何とか呼吸を続けている皐月ちゃんを泣きながら抱きしめる奥様を、私は未だに夢で見るの」


25

 何ということだろう。双子のどちらもが生きていた。その事態に私は勿論、俊介も驚きを隠せない様子だった。
「その、弥生さんは田辺さんに引き渡されて、村の外で育てられた――これは間違いないですか?」
 俊介は動揺しながらも、須藤に確認を求める。須藤は「はい」と端的に答えた。
「では、皐月さんは……ひどい火傷を負った双子のもう一方はどうなったんです?」
「分かりません」
 須藤は頭を振った。
「奥様は、皐月さんを抱き抱えて、おそらく屋敷へと戻られました」
「あなたは一緒に戻らなかったんですか……?」
 俊介のその質問には、彼女は何故か答えなかった。ただ、俯いては茶を啜っているばかりである。おそらく、ここから先は本当に分からないのかも知れない。須藤の仕草に、私は直感めいたものを覚えた。
「柳美登里は、私――柳弥生を、田辺美津子に預けました。それはおそらく、自分の傍に置いておけば、いつかは道久がそれを見つけて、また殺そうとするかも知れない。そう思ったからではないでしょうか。
 それならば、"柳皐月も同じように柳邸から離れた場所に置かなければならないと思います"」
 私は、自信の無さで声が曇らぬように、はっきりとした口調で言った。
「だから村人の誰かに頼んで、田辺さんと君の件と同じように、村の外へと出させたって言うのかい?」
 俊介の問いに、私は首を振った。
「それならば須藤さんにお願いするのが当然だと思います。元々三人で実行に移した計画ですから。つまり、村の外では無く、"村の中で"柳邸とは別の場所に彼女を置かざるを得なかった……と、こうは考えられないでしょうか?」
「理屈としてはそうなるかも知れないが……そんな事が可能かな?」
 俊介は眉を顰めて、長くなった髭を擦った。
 私は一つの可能性――もしかしたら大変、失礼なことかも知れないが――を示そうと考えていた。この仮定が俊介の怒りに触れることになるという事態まで、私は覚悟していた。しかしそれでも、この一つの仮定は、皆に示す価値があると私は考えている。
 私は激しい喉の渇きを、茶を流し込むことによって解消して、俊介に顔を向けた。
「俊介さん……ごめんなさい」
「どうしたんだい、急に」
「今から、私が示しておきたい可能性……単なる想像にすぎません。怒らないで聞いていただけますか?」
 俊介は戸惑っていたが、やがて首を縦に振った。
「ありがとうございます。私は、ちょっと前に"双子の一人=柊春香"という無責任な予想を立てたと思います。けれど、もしかしたら、それは……真実なのかも知れません」
「なんだって!? 春香が犯人?」
 俊介はカッと目を見開いた。しかし、それは純粋な驚きによるもので、私に対する怒りでは無いように思える。もちろん、私の勝手な解釈かも知れないが。須藤もぴくりと眉を動かした。
「春香が犯人なわけが無い。あいつは、あいつは独りで歩くこともできやしないよ」
「いいえ、春香さんは犯人ではありません。……私は、柳皐月が犯人だと思っています」
 俊介は眼鏡を取ると、レンズについた汚れを布でふき取る。私のその言葉に対して、何らかの意見を含んでいるものだと思ったのかも知れない。
「柳美登里は、おそらく柳皐月を安全な場所に住まわせたいと考えたと思います。もう殺される危険性の無いような場所を。そこで目をつけたのは……双子の件の数年後に起きた、"柊春香さんが巻き込まれた柊家の火事だった"。
 火事によってひどい火傷を負った春香さんと、双子殺しの際に大きな火傷を負った柳皐月。もしかしたら、"そこで入れ替えはあったのかも知れません"」
「入れ替え……?」
 俊介の眉が動く。私の言いたいことを理解したようだった。
「じゃあ、本当の春香はどうなったと?」
「で、でも俊介さん……。あくまで可能性、もっと言えば私の想像ですから」
「いいんだ。続けてくれ」
 手で私に話を続けるように促す俊介に、私は悲痛な気持ちを覚えながらも応えた。
「身勝手な想像で構わないのなら、その……春香さんが生きていれば、柳美登里にとっても柳皐月にとっても都合は悪いですよね」
 須藤は何も言わない。
 ただ沈黙を保ち、目を瞑っている。それが一体どんな意図を持っているのか、私には分からなかった。
「莫迦な話だとは思うが……いや、しかし、確かに柊の娘として育てられれば、そこは安全な場所である事は確かだ」
 くしゃくしゃと髪を掻き毟りながら、俊介は大きな独り言を響かせた。
「そうして、柳美登里は娘の安全を確認した後、自刃を遂げる……。考えられませんか?」
 申し訳なさそうな表情を懸命に作りながら、俊介を見つめた。
「もしも、春香が皐月と入れ替わっていたならば、皐月はずっと動けない振りをしていた事になる。しかし、実際は歩くことも可能だった……。そうなると、君は春香に扮した皐月が犯人だと?」
 蝉の鳴き声が喧しく響く。
 私は答えに迷う。単なる一つの可能性を、そこまで発展させたくは無かった。
「――弥生ちゃん」
 突然に声を発したのは、須藤だった。
「なぜ、あなたが突然そんな考えに至ったかはわからないわ。でも、もしかしたら……奥様が今、娘のあなたに向けて全てを告白したのかも知れないわね」
 私と俊介はお互いを見合い、そしてもう一度、須藤の眼を見る。
 その眼は――何かを諦観するような眼差しと、そしてある種の憎しみに溢れているような気がした。
「"春香さんを殺したのは、あなたの予想している通り、奥様だったのよ"」


26

 儀式の行われた晩は、星も月も雲に隠れ、一寸の光も無い夜になる筈だった。
 愛する子を廃屋に閉じ込められ、そして火を掲げられる。柳美登里は深い悲しみの中で、ある疑問を生みださずにはいられなかった。
(なぜ、私の子供たちが殺されなくてはならないの……?)
 考えてみれば、ひどく理不尽なことであると彼女は思った。双子だから……? 村に対する災いだから……? 幼き頃に大人に言われてきたことは、何一つ理由にはなっていない。そして、それに気づいたと同時に生じる、強い憤り、憎しみ――。
 美登里は、鬼ヶ牙村盆地の集落にて育った。素直な娘だった。村の伝統だと言われればそれに頷き、疑うことを知らぬ無垢の少女であった。眼は大きくくっきりとした二重で、鼻はやや低めであったが、色白な肌は玉のように艶やかで――そんな村人からの良い評判も手伝い、十七の頃に柳の大家に嫁ぐことになる。
 そして、それまでの生活とは大きく変わってしまったのだった。
 絶対の信頼を置き、貧しい生活から救い出してくれた大家の息子、柳道久。その男は自分のみを愛してくれるものとばかり、美登里は思っていた。不義など疑うことすらしなかった。
 その美登里の信頼に対する道久の裏切り。これが、夫に対する最初の疑念であった。彼女の無垢な心を大きく傷つけることとなった。
(許せない……)
 小さな憎しみは黒い染み。じわじわと、白い布を黒く染めていくように際限なく、彼女の心は大きな憎悪を生みだしていく。
「奥様」
 美登里は、はっと顔をあげた。自分よりもやや若く、瑞々しい肌を露にした須藤美枝の姿がそこにあった。
 それは、今まで綿々と計画してきた、今日の"手段"の準備が整ったことを意味していた。
 美登里は須藤に向けて頷く。須藤もまた、深々と頭を下げた。



 双子の二人、欠けることなく救い出すことが出来たのは、美登里にとって幸運だった。しかし、せっかく助けた愛する子らを、柳の家――もっと言えば鬼ヶ牙村に置いておくことを、美登里は選ばなかった。それは、もう決して自分の産んだ双子とは逢えないことを意味する、苦渋の決断であった。
弥生を任せることになったのは田辺美津子だった。軽い一酸化炭素中毒で意識を失っていた弥生を、田辺は抱きしめて、そしてそのままトンネルへと走っていく。田辺の実家は京都府に位置していた為に、村を出てそこで弥生を養ってほしいと美登里は頼んだ。
 問題はもう一人――皐月だった。
 美登里は、須藤美枝に皐月を預けることをしなかった。しかし他言を許さない密かな計画であるゆえに、彼女の他に適任者はいない。仕方なく皐月は、美登里の手元に置いておくことになった。
 皐月の火傷は酷いものだった。しかし、表だって介抱してやることは美登里にはできないので、物置のような狭く暗い環境の中で、娘自身に耐え忍んでもらうほかなかった。村から遠く離れた病院に行って、薬や包帯をわざわざ取り寄せ、ゆっくりと母自身で娘の火傷を癒していった。
「大丈夫……大丈夫よ、皐月ちゃん」
 やがて光にさえ怯えゆく皐月を見て、美登里はたまらなく切なく感じ、我が子を優しく抱きしめた。



 皐月が五歳になった年、柊邸ではある事件が起こる。
 柊邸の屋敷一部が焼けてしまい、柊春香が大火傷を起こしたのであった。もともと下半身が全く動けないという先天的障害を持っていた為に、逃げることもできず、多くの煙を吸い込んでいた為に、助けが来た時には息も絶え絶えであった。
 柊邸の寡黙な少女――美登里は笑いを堪えずにはいられなかった。
(やっと……やっと、"我が子"が自由になれる……!)
 その計画は人外の所業と言ってもいいほど恐ろしいものである。それは、美登里も自覚していた。柊春香を殺し、死体を始末して元々の春香の痕跡を消して、
(そして、皐月を春香として、柊家に育てさせる……)
 美登里の手の震えは治まらなかった。異常なまでの精神の高ぶりに、彼女はようやく悟る。自分の中に――悪魔が生まれた、と。

「皐月ちゃん」
 美登里は、皐月を閉じ込めている小さな牢獄の戸を開ける。
 外の光に目を向けようとはしない。闇での生活に慣れてきた皐月にとって、光は眼球に突き刺さるものであった。
 そんな小動物のように光を恐れ、プルプルと小刻みに震える娘に、母は涙を流した。
「もうあなたに、こんな惨めな思いはさせないから」
 皐月は包帯の隙間から見える目を、母親に向けた。
(双子であるというだけで、こんなに悲しくて、つらい生活を強いられる事が、許されるはずが無いわ……)

 計画は夜に実行された。
 美登里は皐月の手を掴んで、そのまま柊邸へと向かった。
 そして、首尾良く柊家に裏戸から忍び込むと、布団に横たわった虚ろな眼をした少女を見つける。その少女こそが柊春香だった。
 春香は"人形"のようだった。
 怯えるように、皐月が母の手をぎゅっと握りしめ、そして春香に問いかける。春香はまるで身体が空洞であるかのように、全く動かずに呼吸だけを弱弱しく繰り返している。
 美登里はナイフを取り出す。
 皐月は咄嗟に悟った。母は、この人形のような少女を、殺す気だ――と。
「ねえ……なんで逃げないの?」
 皐月は小さな声で、問いかける。春香は何も答えない。
「殺されちゃうよ。ねえ……」
 春香の眼には、迫りくる刃が確かに見えていただろう。しかし、微動だにしない。
 真っ赤な鮮血。

 柳美登里の計画は、こうして成された。


27

「そして奥様は、柊家に皐月ちゃんを渡すことが出来たの」
 何とも言えない。憎しみも怒りも、もちろん湧いては来ているのだろうが、それより何より大きな悲しみの波が、私を打ちのめした。
 須藤は、話し終えると自らの湯呑みを手に取って、一口喉に通す。
「須藤さん」
「はい」
 俊介が須藤の名を呼ぶと、下がっていた彼女の視線が、俊介の方向に向いた。
「あなたはどうしてそこまで詳しく知っているのですか」
「……奥様が、教えて下さったのです。そして――絶対に他言もするな、と。奥様が亡くなられたのは、それから一年後のことでしたね」
 俊介は納得したように頷いた。しかし、私にはどうにも引っかかる部分があった。
 "どうして、美登里は自殺をしたのか"ということだ。
 須藤が打ち明けたことから、柳皐月と柳弥生(これは私だ)が二人とも生き残る事が出来た。絶望に暮れた末の自殺としては考えにくい。
 私は、それを須藤に尋ねた。
「……そうね。生き残りはしたけど、自分の元へはもう決して戻って来ない……そこに悲観したのかも知れないわ」
 私は頷く。納得出来うる答えだった。
「――とにかく、もうほぼ間違いないのかな」
「え?」
 私は首を傾げる。俊介は、鼻を一回啜って答えた。
「春香が……いや、春香に扮した柳皐月が、犯人だってことが、さ」
 私も須藤も俯いた。本当にそれを断定してしまっていいのだろうか。現在、皐月には護という愛すべき子供もいる。奇形ながらも元気に泣いて(?)、母となった皐月から離れることもしない。
 そんな人間が、本当に人を殺したのか。違和感はそこにあった。
「しかし、確かめなければならないだろう」
 俊介の眼には強い意志が宿っていた。
 私は、なんだかそれに従わざるを得ないような、強い義務感を感じたのだった。
「ん……」
 俊介が不意に廊下の方向を、怪訝そうに見つめた。
「どうしたんですか?」
 と私が言うと、
「聞こえないかな。何だか大きな声が……そう、悲鳴のような」
 私も耳を澄ます。しんとした静まりの中で、それははっきりと聞きとれた。男の声に間違いなかった。
「道成くんかっ!」
 俊介は立ち上がって、すぐに部屋から飛び出ると、声の方向まで廊下を駆けていった。
私もそれを追いかける。つるつるとした廊下に滑りそうになりながらも、私は懸命に彼の背中目がけて走った。



 道成がいたのは、中庭だった。
 血塗れになりながら、道成は繰り返し大きな声で叫んでいる。彼が両手で抱き締めているのは、柊春香――いや、柳皐月だった。
 庭に転がっている血で汚れた刀。おそらくそれは、柳道久、橘慎一郎、そして柊夏代を切り殺したものであろう。
柳皐月は、首の動脈を切って絶命していた。
(……自殺?)
 だらんと力無くぶらさがった皐月の細い手。手の甲までもが皮膚細胞の壊死によって灰色になっていた。そして母に抱きつきながら乳を求める護もまた、彼女の動脈から噴き出した鮮血で汚れきっている。
「……奥様と、同じ」
 須藤がそう呟く。今こうして池の前で横たわる皐月が、庭で首を切って死んでいた美登里と重なったのであろうか。
「うああああ……! 春香! 春香ーっ!」
 泣き喚きながら、道成は必死に呼びかけている。実の姉でありながら、性的な繋がりを、そして純粋な愛を持ってしまった道成。彼に、本当のことを告げるべきか否か――正しい答えはどちらなのだろう。
 眉を顰めながら、そんな状況を見つめる俊介も、きっと私と同じようなことを考えている。そんな気がした。
「――これが自殺だとしたら、春香は……やっぱり春香じゃなかったんだな」
「え?」
 私は思わず上擦った声を出してしまう。
「ほら、周りを見てごらんよ。車椅子が無いだろう。ということは、この庭まで車椅子ではなく"自分の足で歩いて来た"ってことさ」
「歩けた……」
「そう、やっぱり僕の妹の春香は小さい頃に死んでいたんだ。この死体は間違いなく、柳皐月――君の姉妹なんだよ」
 私は俊介の言葉を耳に入れながら、ふらっと血塗れの死体に近づいた。包帯のほとんどが赤く染まっている。これが私の"片割れ"だったのだ。
 ふと、私はある事に気がつく。
 それは、皐月の指だった。"他の指は折り曲げているのに対し、薬指だけが不自然に立っている。"だが、今の私にとって、この意味を解するのに大して時間はかからなかった。
「さ……つき……」
 私は、血で汚れた地面にも拘らずその場で膝を折り、大粒の涙を零した。



「これは?」
 私は、幼き頃に皐月に問いかけたのだった。斜陽の赤い……真っ赤な光に照らされながら、人差し指を彼女の前に掲げて。
「おかあさん」
 皐月はそう答えた。そう、"人差指はお母さんのしるし"だった。
 私は正解を言われ、とても幸福な気分になった。それと同時に何か悪い事をしているような、あるいは軽い悪戯を愉しんでいるような気分にもなる。二人だけが知っている……暗号。
「じゃあ、これは?」
 "今度は薬指"。皐月は、先程よりも時間をかけずに答える。
 嬉しかった。
「おねえちゃん」
 皐月は無邪気な笑顔を、弥生――私に向けたのだった。


28

 時は翌朝へと移る。
 私はリュックサックを担いで、トンネルの前にいた。ようやくこの村から帰ることとなったのだ。と言っても、わずか三泊四日の滞在時間ではあったものの、私にとっては濃厚すぎる時間だった。
「やあ、すぐ帰っちゃうんだね。もっとゆっくりしていってもいいのに」
 今日はきちんと頭を整えてきているようだった。いつも思っていたのだが、俊介の笑顔には、どこかぎこちなさがある。
私は頭を振った。もう十分だった。私の生まれた場所はやはり此処であった、それが確認できただけでも良かったのだ。
「まあ……君も大変だっただろう。妹さんのことも、お母さんのことも。
 ひとつ聞いてもいいかな?」
「なんですか?」
 私は首を傾げる。さらっと髪の毛が揺れた。
「君は――本当に自分の故郷を知ることができて、嬉しかったかい?」
 俊介の問いに、私は少し考える。が、すぐに微笑みを作った。
「それは、やっぱり知られて良かったと思います。正直、とてもつらいですけど……知らないよりは、ずっと良かった」
「君は強いね」
 俊介は眼鏡を外した。綺麗な瞳がそこに見てとれた。
「俊介さんもですよ」
「うん?」
「妹さん達のこと、お父さんとお母さんのこと……負けないでくださいね」
 私は拳を作る。そして、彼もまた同じように拳を作った。その仕草はとても照れくさそうに見える。
「君に負けないように、強い心でいるつもりだよ」
 俊介は私を強く抱きしめた。様々な場面で救いになってくれた思い出と共に、私は彼を抱き返した。
「じゃあ、元気で」
「はい」
 私は頭を下げると、彼は微笑みながら手を振ってくれた。そして私もトンネルに向かって進みつつも、時々後ろを見ては手を振る。お互いの姿が見えなくなるまで、それは繰り返された。
 かくして、私の物語は幕を閉じた


29


 遺書


 私はもう耐えきれません。寿命まで生き伸びるには、あまりにも罪が多すぎるのです。私の身体は膨れ上がり、今にも破裂してしまいそう。私のほんの一筋の良心が、悪魔に完全に身を売ったと思われた私の体さえも、こんなにまで苦しめているのです。
 柳道久、柊道徳、柊静江、橘慎一郎及び柊夏代を殺害したのも、最終的に柳皐月に罪を押し付けたのも、何もかもが私のしたことです。
 死ぬ前に全てを告白します。許されようとは思っていません。ただ、私の言い分も聞いて欲しかったのです。私はただの殺人鬼ではありません。私の目標は、復讐ただ一つだった。本当に、それだけの為だったのです。
 我が愛する娘、雪枝(ゆきえ)の苦しみを鎮めるための贄。それがまさしく私の殺してきた人間達なのです。

 私が行動するに至った理由を説明するには、二十三年前に遡らなくてはなりません。
 私は妊娠してしまいました。もちろん、それは不義の子です。柳道久が強引に私に迫った結果が、最悪の形で表れてしまいました。柳美登里もどこから耳に入れたのか、とても腹を立てていたのですが、私の妊娠など根も葉もない噂である事を懸命に主張して、やっと許してもらえたのです。
 ところが、だんだんにお腹が存在を強調していくにあたり、誤魔化すこともままならなくなってきました。そこで私は重い病気にかかってしまったことを訴えて、長期の休暇を頂きました。
 集落地の産婆の家で、内密に元気な赤子を産みます。泣き声の一際大きな女の児、それが雪枝でした。
 そして、程無くして柳美登里も無事に出産を終えたのですが、それがなんと双子――村で最も忌み嫌われる形で彼女達は生まれたのです。弥生と皐月、それは悪い噂を村にもたらしました。
 私は彼女達を不憫に思いました。いつかは村によって殺されるんだ、と。決して不思議なことではありませんでした。双子が生まれればそれを淘汰する――そういう習慣がまだこの村には根を張っていたのです。
 その時期は、美登里の懇願はたまた抵抗もあって遅らされましたが、果たしてそれは実行に移されました。今から十八年前のこと。双子は四歳でした。私や同僚の田辺は、美登里に呼ばれて、何とか双子を守りたいとそう言われました。村のしきたりに背く行為ということは承知の上、美登里は必死に私達に縋りつきました。
 かくして、計画は実行されました。
 私は以前、柊俊介と柳弥生に対して、次の様に語りました。私と田辺、そして美登里の三人で力づくで戸を壊し、双子を助けた――と。しかし、真実はそうではありません。
 戸を壊したのも双子を助けだしたのも、美登里本人の手によるものでした。
 燃え上がる廃屋に、美登里は真っ先に行って、軽症の弥生と重症の皐月を抱え、その場で息を切らしていました。しかし、私は何かそこで"違和感を抱いたのです"。
 轟音を響かせながら燃える廃屋の中に、誰かがいる。そう思った私は、最悪の答えにたどり着きました。
 雪枝です。
 雪枝が、この燃える襤褸小屋の中に閉じ込められているのです。
 美登里――あの女は、事もあろうに私の娘を身代わりにして、己の娘を助け出したのです。(そこには娘を助けたいという気持ちと、常日頃抱いていた私への憤りを晴らす気持ちがあったのでしょう。)私は叫びました。か細い泣き声が燃える廃屋の中から聞こえます。私は今から廃屋を突入して娘を助け出そうとしました。あの子さえ助かるなら、死んでもいい。しかし、私の身体を田辺が抑えつけました。もう無理だと、あなたが死んでしまうと、そう言って。
 不義の子。確かに、雪枝は不義の子ではありました。
 ですが、こんなことは本当に許されますか。
 私は美登里の底なしの悪意に打ちひしがれました。元々、田辺に弥生を預け、私に皐月を預けるという計画だったのですが、結局私に皐月を引き渡すことはありませんでした。
 報復を、何よりも恐れたからでしょう。
 
 私はすぐに屋敷に戻ることなど出来ませんでした。その場で、私は娘の後を追おうとさえしました。私の心の中に大きく鳴り響く、雪枝の泣き声はやむことがなかった。私が死ねば、それは止まる。全ての苦しみも消えてなくなる。そう思ったのです。
 しかし、私はある考えに辿り着きました。
 私の娘を平然と身代わりにして、子供を可愛がる美登里への復讐。そして、あの悪魔の所業とも言うべき子供殺しの儀式を実行に移した人間への復讐。もしかしたら私は村全体に対しての復讐を考えていたのかも知れません。
 十六年前、柳邸に納められた刀を、道久には知られずに持ち出して美登里を殺しました。自殺に見せかける為に遺書も残したのです。これは然程難儀もしませんでした。昼間届けるお茶に眠り薬を仕込んで、庭の前で殺すという作業自体は五分もかかりません。
 しかし、これで美登里への復讐が完結したとは、私は思えませんでした。
 彼女達に罪はもちろんありません。けれども、弥生と皐月を殺してこそ私の復讐は成し遂げられたことになると思ったのです。これを読んでいる方は、私が勝手な人間であると思われる事でしょうけれど。
 そして現在から二年前、柳美登里の名を騙って、柊道徳を誘き出し殺害するという計画を実行に移しました。ようやく、あの火討ちの実行者を殺すという段階に私は足を踏み入れました。実際に美登里の手紙は強い効力を発揮した様子で、道徳だけでなくその妻である静江までもが、私に刃に向かってきたのです。
 そして――天は私に味方をしてくれたようです。いいえ、天ではありませんね。雪枝です。雪枝が空で私に向かって激励をしてくれている。本気で私はそう思いました。
 なぜなら、田辺美津子が危篤であるという知らせを、丁度良く受けていたからなのです。

 私は、病院に向かいました。
 田辺は窶れ果てていました。昔の面影をうっすらと感じるだけで、まるで皮と骨だけの様になっていました。もう、長くは無い。私は彼女の励ます裏腹でこんな事を考えていたのです。
 私は、田辺も憎むべき人間の一人でした。あの燃える廃屋を前に私を引き止めて、雪枝を見殺しにさせたわけですから。
 田辺に「双子は許されたから、帰ってきてもいい」と言うと、彼女は泣きながら喜んでいました。それもまた私の僅かな良心に痛く突き刺さってしまいました。私は、彼女がとても優しい人間である事を、昔も今も強く感じていたからです。
 そして、その二年後に田辺皐月――いえ、柳弥生がこの村、この地に再度足を踏み入れてきました。全ての標的が、この村に揃いました。
 しかし、久々に見た柳弥生は全くの別人でした。村の空気を吸っていないといえば適当かどうかは分かりませんが、それは村の人間とは明らかに違う空気を漂わせていました。
 その時に私は疑いました。
 柳弥生はもう死んだのか。それともまだ生きているのか、と。
 それを確かめるために、私が「帰りなさい」と彼女に忠告をして、それでも帰らなかった場合は、まだその心の中に柳弥生が生きていると見なそうとしました。帰った場合は――そう、もう弥生は死んだと心の中で折合いをつけようと決めたのです。
 それは私の唯一の情けでもありました。
 しかし、彼女はやはり柳弥生でした。

 その夜、私は柳家当主であり、雪枝の父でもあった道久を彼の部屋(そこは離れでしたが)で殺害します。道久は老齢になっても相変わらずでした。美登里が死んでからと言うもの、私もそろそろ老いが体を回り始めたので、彼は下の集落に若い女を探しによく行っていたのです。
 私は幸いにも何の疑いも被らずに、彼の部屋に入ると、彼の背を目がけて勢い良く斬りつけました。
 まさか私が、主人に刃向かう犬だとは道久も思わなかったのでしょう。
 彼はそのまま倒れました。そして、後ろにいる私に向かって何度も何度も命乞いをしたのです。その哀れさと言ったら、何と表現すれば良いのでしょうか。
 子供を殺す企てを率先した男は、半ば悪と化した私でも呆れてしまうほどに、己の保身を最優先としたのです。彼の眼には涙が溢れてきました。許してくれ、美枝。きっとそう言ったのでしょうか。
 私はもう一太刀を浴びせ、まもなく、道久は絶命しました。
 斬りどころが悪かったのか、私は返り血を多く浴び、部屋中に鮮血が散りました。それは予想外の出来事でした。あまりに凄惨なその部屋の状況に、私は暫し力が抜けて、失禁をしてしまいました。

 翌日にやはりそれは騒ぎになりました。
 橘家、柊家の面々が屋敷に揃います。そこには、そう、昨日この村に来た柳弥生も顔を出しておりました。もちろん包帯で全身を包み赤子をあやす、柳皐月もおりました。私の標的の一つ――美登里の双子が揃ったのです。
 柊俊介は、そこである疑問を投げかけました。私は廊下でこっそりと聞き耳を立てておりましたが、それは私の鼓動を大きく高鳴らせました。
 どうして背中から道久は斬られていたのか。あの部屋は足音が響くはずなのに、気づかなかったのか。こう言う疑問でした。
 私に言わせれば、答えは容易です。犯人は道久の人見知りだった――と。
 実際そこで出た答えは、逃げようとして背を向けたというものでした。しかし、逃げようとするならば"どうして逃げ場のない奥のほうへ逃げようとしたのでしょうか"。そこに疑問を投げかけられないのは、私にとって幸いでした。

 皆が解散した頃に、私は夏代と湯呑の片づけをしておりました。
 丁度その時、田辺皐月が生き残った双子の一人であるのは事実で、復讐の為に二年前からこの村に潜んでいたのかも知れない。そんなことを夏代に遠まわしに伝えます。
 夏代は、私の言葉を信じ込みました。なぜなら、元々夏代は双子が柊道徳・静江夫妻を殺したものだと信じて疑わなかったからです。
 私はこれで夏代が、柳弥生を殺すであろうと確信しました。復讐は、彼女にとって何も邪なことでは無かったからです。
 私は夕暮れ時に夏代と別れた後、急いで橘家に向いました。
 そして奥方の芳江がいない間に、独りで休んでいた慎一郎を何度も刀で突き刺し、道成に疑われぬよう急いで柳の屋敷に戻ります。
 移動には、石段を上り下りする必要のない、全ての屋敷間を繋ぐ細道を使いました。車椅子に乗って脚が使えないふりをしている皐月以外は、双子の霊を恐れて誰も通らない道。私にとって、とても都合が良かったのは確かです。

 夜中に、私は柊邸に様子を見に行きました。
 上手く行けば、今晩にも夏代は弥生を殺すだろうと、私は予想していたのです。思ったとおり、夏代は弥生を襲っていました。
 しかし、どうしたことでしょうか。いつまで立っても、夏代は弥生を殺そうとしません。むしろ手に持ったナイフを見せつけて脅し、弥生の身体を愉しんでいるように感じました。弥生を無理矢理脱がせた後に、激しくその肌に接吻をし、掌を胸や股に這わせます。
 結果、予想は外れました。夏代はやはり弥生を殺しはしませんでした。そう、私は気付いてなかったのです。夏代が同性愛の志向があり、嗜虐性愛の持ち主である事を。
 このまま夏代が弥生を殺さなければ、計画は崩壊し、最悪の場合に今後夏代が私に言われたことを誰かに言ってしまうことで、私が不利になる可能性がある。私は恐れました。
 ならば、やはり夏代を殺してしまうほかない。彼女が弥生を殺してくれたあとで、自殺に見せかけるなどして始末はするつもりでしたから、
 私は障子を開けて静かに夏代の背後へと近寄りました。
 裸体の弥生に重なりながら、夏代の裸体はうねうねと動いていました。
 このまま二人の身体を突き刺して一気に殺したとしても、今更そんなことは問題ではありませんでしたが、私は"夏代殺しの罪を弥生に押し付ける"という計画を、思いつきます。夏代が弥生を襲い、それで身の危険を感じた弥生が、夏代を刀で斬ったという展開に持ち込む。あわよくば、全ての犯人を弥生に仕立てることができる。そのためには、夏代を殺し弥生は生かさなければならない。当初の標的を殺さずに、道具を殺すという何とも無益な殺人を、私はその晩に決行したのです。

 しかし、うまくはいきませんでした。
 おそらく失敗の理由は、柊俊介の存在でした。彼は恐ろしく勘が鋭い人間で、村の単純な思考とはかけ離れた頭の持ち主でした。彼は、柳弥生と一緒に行動をしていたという理由で、橘慎一郎殺しが彼女には不可能であったことを理由に、犯人ではないと結論付けました。
 弥生が駄目ならば――私は最後の手段を選びました。"柳皐月を、全ての殺人の犯人とする手段を"。
 
 やはり俊介と弥生は、その日に私の元へと訪れました。
 好都合なことに、私が語るよりも先に、弥生は真実に辿り着いていたようです。柊春香が柳弥生であるという事を、彼女は断定しないながらも予想として仄めかしていました。
 私はその彼女の予想を認めます。嘘はついていません。本当の春香は美登里が殺し、皐月を偽物の春香としてすり替える。これは、あの醜い女がやってのけた事実なのですから。
 こうして私が昔の事実をすべて語ると、場の意見は、柳皐月が犯人と言うことで固まってきたようでした。もちろん、私の娘である雪枝のことは、黙っておりましたが。
 そして池の前に置かれた皐月の死体。
 母である美登里と同じように娘が自殺を遂げる――そんな状況を私は作り上げ、皐月が今まで復讐の為に動いてきたという事が、俊介と弥生の中でほぼ確実化して来たのが手に取るように分かり、私は安堵の笑みをうっすらと洩らしました。
 
 私の復讐はこれでおしまいです。
 柳、柊、橘の三家の人間を殺し、美登里を殺し、その娘を殺す。弥生は逃がしてしまいましたが……今では、幸いであったと思っています。やはり彼女は、最早この村の人間でないことなど、心の奥底で分かり切っていた部分があったものですから。
 全ては雪枝の為に行ったことです。あの村の禍々しき行事の犠牲者になった雪枝。悪女によってその娘達の身代わりにさせられた雪枝。
 しかし、不思議なもので、雪枝は今でも私の心の中で泣いているのです。私の十六年をかけてやってきたことは、無駄だったのでしょうか。夢に出てくるのは、私の殺した人間達が、競って私を殺しにかかる夢。そこに雪枝は一度たりとも出てきません。
 私は死を選びます。もう、堪えられないのです。
 ですが死んだとしても、雪枝の住む世界には行けないでしょう。天使のように純で愛らしい雪枝の世界に行くには、私は罪を犯し過ぎました。美登里やあの三人のように、暗いじめじめとした世界へ放り投げられる事でしょう。
 十八年の全てを、復讐に費やした人生。
 そんな女を、もし誰かがこの書面を見ているのであれば、笑ってやって下さい。笑われればまだ癒されるような気がするのです。

 さようなら、雪枝。ありがとう。
 

 平成十七年八月一日 須藤美枝



――了――



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