白い少年




T.沢村精神科医の視点(1)
 
 私が江口一樹くんに出会ったのは、滝のような大雨の日だった。彼は自殺未遂で病院に運ばれてきた。自ら手首を切ったということで、失血死寸前の状態であり、輸血作業でなんとか一命を取り留めた。手首の傷は簡単に癒えた。
 しかし、自殺未遂だということで、精神的に問題がある可能性があり、精神科に引き渡された。そこで精神科医をしていた私が、彼の担当となって面会したことが初めての出会いだった。
 外見は、目が大きく、色素の薄い茶色の髪で、肌は蒼白と言ってもいいほど白く、唇は若干渇いていた。
「よろしく、センセイ」
 彼は、屈託のない笑顔を私に向けた。白いシャツに、「薄い」と形容することがもっとも良く似合う容貌は、ブラインドから零れる陽光によって、溶けて呑み込まれそうであった。
 まず、私は彼の顔を見た。口脇にはえくぼがぽっかりと空き、澱みのない笑み――精神的に病みを抱える人間は(全員とは言えないが)総じて、視線がまばらであり、笑みと言ってもただ口を左右に引き延ばすくらいのものである。しかし、彼はそれと正反対の、純粋な笑みを浮かべている。はたして、彼が本当に"自殺"という人生の最終手段を選んだのか――私は、疑念を抱きつつあった。
「僕はどうなるの。センセイ」
 一樹くんは後ろ髪をわしゃわしゃと掻いた。
「そうだね。まずは休んでもらおう。いいかい、楽しいことをしたり、美味しいものを食べたり、眠たいときには眠る……これがこれから君のすることだ」
 私は、彼のようには上手く微笑むことはできないが、それでも懸命に笑顔を作った。
 彼は素直に頷いた。カルテには二十三歳と書いてあるが、その仕草や表情は、十代であっても決して奇妙ではなかった。大学、就職、家庭事情。今のところは何も聞かないことにした。精神病は何が引き金となるか分からない。彼のように自殺にまで至るケースならば尚更である。
 私がボールペンでカルテに書きものをしていると、一樹くんは、大粒の雨がぶつかる窓を、口を開けて見つめていた。彼の眼は、丸く見開かれていた。
「怒ってる」
 彼の声調に乱れが生じた。私は一樹くんの顔を覗きこみ、
「一樹くん?」
 彼の瞳は、まるで私の存在など無いかのように、ただどこかしらの一点に、視点を固定した。
 彼が何を見ているのか――何に乱れているのか――。
「――が、怒ってる」
 大雨による騒音のせいもあり、最初のほうが聞こえなかった。すると、彼の身体は瞬く間に震え始め、そのまま椅子から転げ落ちた。その転び方は、まるで咄嗟に何かから避けるような、俊敏な動作であった。
 私と看護師の菅野さんは、慌てて彼の身体を抱き起こすと、そのまま移動ベッドに寝かせた。
 二十三歳という年の割に、軽い。これは私の一つの違和感であった。
 確かに痩身ではある。それは外見からでも判断できよう。しかし、この軽さは――まるで子供だ。
 子供。確かに今の彼は、子供のように身体を震わせ、雨に怯えている。
 私は一つ――憶測ではあるが、一つの病名が頭に浮かんだ。強迫性障害における被害恐怖。つまり"自分に危害を与えるものを極端に恐れる精神的病状"である。「雨が恐ろしい」というのは考えにくいが、雨にまつわる何かのエピソードが、彼に恐れを感じさせている――というのであれば、意外と多い。
「先生。仰られたようにベンゾジアゼピンを服用しておきました」
 菅野さんは、病室で彼が安静にしているのを確認した上で、医務室へと戻ってきた。
「うん、今はとにかく経過を見よう。あまり薬を使わずにね」
「はい」
 私は窓を見た。雨は、何も知らずにただ降り続ける。しかし、一樹くんにとっては、これは何かの怒りだという。この大粒の雨が、一体どれほどの意味を彼に与えているのか――。
 私は、コーヒーを一口啜った。
 しかし生憎なことに、それはすっかり冷たくなっていた。


U.沢村精神科医の視点(2)

 翌日は、昨日の雨が嘘であるかのように、雲一つない青空であった。
「センセイ」
 そして、一樹くんも昨日の怯えが嘘であるかのように、今日は明るく振舞っている。私の診察室にひょっこりと顔を出してきた。
「今日は元気だね」
 私がそう言うと、彼はニコニコと何が可笑しいのかと勘繰りたくなる程、笑っていた。しかしそれも長くは続かず、ふっと彼は俯く。私は、どうしたのかと首を傾げると、
「センセイ、昨日はごめん」
 彼なりに昨日のことは反省しているようだ。反省などしなくてもいい――ただ、発症しただけなのだから。と、私は心の中で彼を慰める。
「お母さんが」
 お母さん。彼の言葉から出た、母という存在。彼は続けた。
「お母さんが、怒ってたんだ」
 私はほぼ反射的に、机にある彼のカルテを取り出すと、その家族構成に目をやった。一樹くんの母は、彼が十四歳、中学二年生の頃に亡くなっている。
 なるほど。彼の精神的な重荷となっているものが、漠然と掴めた気がする。
 私が一人でふんふん頷いていると、彼の助けを求めるような眼を見て、ハッと我に帰った。不覚にも、一樹くんの不安を駆り立ててしまったようだ。
「気にしなくていいんだよ。何も」
 私は笑顔で彼に告げた。すると、彼も実に嬉しそうに、身を乗り出して、
「カンゴフさんにもそう言われた」
 菅野さん、か。看護師の菅野さつきさんとは、実に長い間の同僚である。元々、当総合病院の精神科は人気が無いものだから、患者は集えど、医師や看護師は割と集まらない。
 そんな中でずっと共に科を経営してきた、パートナーとも言えよう。彼女の仕事に間違いはない。書類やカルテはきっちりと整理してあるし、不備もなく、患者との接し方も良好である。歳は、私より三つ四つ下だったか。容貌は、決して美人ではない――というのは、彼女には秘密にしておいて欲しい。
 
 私は診察室を出て、彼と共に、彼の病室へと向かった。
 ゆっくり、ゆっくりと、まるで雲の上を歩いているかのように、一樹くんは廊下を進む。私はその脇で、彼の歩幅に合わせて歩いた。病院の味気ないベージュ色の廊下――精神病患者にとって、あまり良好とは言えない環境でも、一樹くんは幸せそうに微笑んでいた。
「今日、相部屋の新しい友達が来るからね」
 私は彼にそっと耳打ちした。今日から入院することになっていた、柏木哲哉くんのことを初めて彼に告げた。哲哉くんもまた、(彼の場合は明らかなものだが)躁うつ病という精神病を患っていた。
 正直に云えば、彼の反応がどう向くか、一番気になっていたことだった。しかし、どうしても個室を与えるわけにはいかない。独り――という状況は精神的に良くない。もちろん、単に部屋数が少ないということもあるが、それはまあ、付属的理由である。
 もしかしたら、彼はそれを拒否するかも知れない。だが、そんな私の気持ちをよそに、一樹くんはすんなりと頷いてくれた。
「センセイは聞かないの?」
 突然の一樹くんの言葉に、私はピクンと肩を震わせた。
「何をだい?」
「僕が、どうして、ナイフで手首を切ったのか」
 はっきり言って、驚いた。
 その事は伏せて、まずは精神状況を安定させようという私の企みを、いとも簡単に彼は打ち破った。私は平常心を保ちながら、彼に笑みを向ける。
「君はそれを話したいのかな?」
 一樹くんはかぶりを振った。それはそうだろうな、と私は思う。
「でも、センセイには話しておきたいんだ」
 ああ、"また"だ。一樹くんの、助けを求めるような――その弱弱しい瞳。
 私は小さく頷いた。頷くだけで良かったのだろうか。もっと他に何か出来ることがあったのではないか。
 そんな私の拙い反応でも、彼は安心したようだった。そして彼は、その乾いた唇を開き、小さく喉を震わせた。
「あの夜、僕は――"お母さんに、そうしなさいって言われたんだ"」
 彼の後半の言葉は、彼自身も意図して強調しているようだった。そして思いの外、その一樹くんの言葉は私の心に長く――重々しく残ることになる。
 時計は、正午を回っていた。丁度、傍にある売店が慌ただしくなってきた頃だった。


V.あの夜

 平成十八年五月二十三日――江口一樹は、ヘッドフォンで耳を塞いで趣味の読書を、ゆったりと楽しんでいた。その夜は、台風が近づいて来ている為に、集中的な豪雨だった。ヘッドフォンから流れる心地よいBGMは、彼を鬱陶しい雨の音から遠ざけてくれた。
 一樹には、畳を足の裏ですりすりと擦る感覚が、たまらない快楽であった。彼は祖母の家に住まわせてもらっている。もちろん、"社会に適応するには難しい"性格であるので、なかなか独り立ちをさせることはできない。すなわち、一樹が自由に行き来できるのは、"ただ一個の室内だけ"であった。トイレ、外出は全て祖母に付き添ってもらい、やっと可能となる。
 彼自身は、そんな束縛をどう思っているのか――それは定かではないが、彼は彼なりに、その空間を気に入っているようだった。
(あれ……)
 一樹が座っている椅子を引くと、ヘッドフォンのコードが限界を迎え、彼の耳からぽろんと離れる。ヘッドフォンはカランと軽い音を立てて、畳の上に落ちた。
 一樹はほぼ無心で、下に落ちたヘッドフォンに手をやった。彼の手が、ヘッドフォンに触れるか触れないかの刹那――彼は憤怒の情を、身体で感じた。
 BGMの無い空間。彼の耳を侵す雨の轟音。
 咄嗟に椅子から立ち上がる。そして、彼の眼は、部屋のあちらこちらに注がれた。桐箪笥、本棚、窓――まるで何かに怯えるように、何かの追跡から逃れるように。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
 一樹の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 彼の眼には、確かに――「母」が映っていた。それは、"彼の中では"幻でも何でもない。確かな母の存在である。大きな窓を背に、彼女はいた。
「お母さん、ごめんなさい」
 彼の許しを懇願する声。涙が頬を伝い、畳の上にぽたんと落ちる。しかし――これは非情というべきだろうか。母は、無表情を保ったまま彼を見つめていた。
 ふっと、明かりが消え、部屋一面は闇となった。
 おそらく強風のための、一時停電であろう。一樹には、下の階でどたばたと慌てる祖母の足音が聞こえた。(祖母が下の階から、一樹を呼ぶ声が聞こえたかも知れない。)そして眼前に立っている母は、窓から入る夜の微かな光を背に、黒影となっていた。
 ――カズキ。
 彼女が話した――のだろう。一樹からは、母の影しか見えない為に、母が口を開いたかどうかが分からない。だが、その声は間違いなく母の声であった。
 ――オカアサンは、カズキのことを許さない。
 母の冷たく見放したような声。その声は息子の心臓を貫くものであった。
(そんな……お母さん。どうしたら許してくれるの)
 一樹は、一気に全身の力を無くし、崩れかかるように畳の上にしゃがみこんだ。母は、おそらく近づいている。というのは、彼女の影は次第に大きくなっていったからであった。
 ――カズキ、死になさい。
 ――私と同じように。お母さんと同じように。
 ――わかる?
 母の言葉は一樹の脳内を何回も往復した。まるでその言葉自体が、蟲のように一樹の周囲で蠢き、隙あらば一樹の身体を食いつくそうとしているようだった。一樹は頭を振った。
(それで、お母さんは許してくれるの。僕が死ねば、お母さんは笑ってくれる?)
 母は微笑んだ。一樹には分った。
 ――カズキはえらい子。物分かりのいい子。
 一樹はその時、初めて安堵の笑みを彼女に向けた。どうやら、母の怒りが収まったようだった。母は何に怒っているのか――それは、一樹には痛いほどよくわかっていた。
(あの夜……あの雨……あのナイフ……ぜんぶ、一緒。お母さんと、一緒)
 子は、母に褒められた幸福の中で、よたよたと机に戻り、鉛筆立てに入っていたカッターナイフを取り出した。
 ――カズキは、死なない限り許されないの。あなたは、許されない。
 一樹は袖を捲り、手頸の青い血管を露出させた。カチカチと、カッターナイフの刃が外界へと曝け出された。綺麗な銀色――あの時もそうだった、と一樹の脳裏に過去が一瞬飛び交って。
(そうだね、お母さん。今度は僕が死なないと駄目なんだよね)
 一樹に迷いはなかった。それで母の怒りが収まり、母が再び一樹に微笑むのであれば。一樹は行動を起こす前に、今一度、母のいる窓辺を見た。
 轟く雷鳴。
 その雷光で、一瞬見えた母の容貌。肌は白く、目はまるで一樹と瓜二つと言ってもいいほど、大きく丸い。その猫のような目で、息子を見つめ――母の笑みは一層強まった。
 ――そう。"あなたは、私を殺したのだから"。


 祖母が二階の一樹の部屋に上がってきたのは、それから間もなくのことであった。そこへ踏み込んで老いた瞳が見たものは、手首から血を流した孫の無残な姿。
 あとは、何も――何も、なかった。


W.沢村精神科医の視点(3)

 私は、近くの区役所図書館で調べ物をしていた。それは、江口一樹くんの関係した事件。正確に言うならば、一樹くんの母である江口喜美子が殺された事件。
 あった。やはり、これは事件になっていた。私の記憶していた通りだった。
 平成九年。母子家庭強盗事件。殺されたのは江口喜美子。しかし、データによれば、"彼女を殺したのは一樹くんではない"。それは、強盗犯である山田和夫、川崎義美によるものと書かれていた。犯行グループはどちらもそう供述しているらしい。自分達が不利になるような嘘など、言うはずもないのだから、この供述には信憑性はあろう。
 だとすれば、なぜ……。私は首を傾げた。
「僕が殺したんだ」
「僕が、お母さんを――だから、僕は自分で自分を殺さなきゃ。お母さんが言ったんだ」
 一樹くんの話では、あの日、彼の部屋に母である喜美子が訪れた。そして喜美子は、一樹くんに"自殺"をするように命じた。これは何を意味しているか。
 そう、"罪悪感"だ。
 江口一樹の精神の奥底に潜む、母親を殺してしまったという罪悪感――これが彼に精神的苦痛をもたらし、果てには母の幻影をその目に映し出し、自傷行為にまで及んだ。
 そうか。私は閃いた。現実には彼は"殺してなどいない"。しかし、"彼自身、自分が殺したという認識を持っていれば"現実の状況など関係ないのではないか。
 ――私が頭を抱えていると、マナーモードに設定していた携帯電話が、ポケットの中で震えだした。
「はい、沢村です」
「――休日中に申し訳ございません。菅野です」
 電話の主は、菅野看護師だった。確か今日は彼女が出勤し、一樹くん達の面倒を見ているはずだ。
「何かありましたか」
「ええ。あの……柏木哲哉さんが」
 柏木哲哉くん――先日から江口一樹くんと同じ病室で、躁鬱病という精神病を患っており、当分の療養を課した。
 電話の内容は、その柏木哲哉くんが暴れている――との報告だった。彼の場合は重度の双極性障害であり、躁状態と鬱状態を繰り返す。そして「暴れる」といった行為は、いわゆる躁状態である。
 私は、その隣のベッドである江口一樹くんがやや心配ではあったが、まずは本人を宥めなければ――と、精神安定剤を服用させるように要請した。
「僕も行くから、ちょっと待っててくれませんか」
「――はい」
 流石の菅野看護師でも、その電話の声から、若干の不安が読み取れた。
 廊下の公衆電話からかけてきたのだろうか。菅野さんの声とは別に――何やら、罵声の声が聞きとれた。おそらく哲哉くんのものだろう。その標的となっているのは、哲哉くんの保護者の方か、もしくは医師か看護師か。
 精神科ではこういうこともありうる。が、頻繁ということではない。
 私はバッグを閉じると、急いで図書館の玄関を出た。


X.沢村精神科医の視点(4)

 私が彼らの病室へ向かった先に最初に見たのは、額から汗を流した同僚の坂上医師だった。おそらく"暴れ出した"彼を押さえつけるのに、非常に体力を費やしたのだろうか。
「お疲れ様」
 私は労いの言葉をかけた。坂上医師は、苦笑に似た笑みを浮かべて、
「アンチトランキライザー打つのさえ、一苦労だったよ」
「彼は――」
 坂上医師の肩上から、病室の中を覗き見た。(すみません……すみません……)なるほど、確かに柏木哲哉くんは眠っているようだった。その傍には、先程電話をくれた菅野さんが、乱れた髪を整えながら、平然とした素振りを見せつつ佇んでいた。(本当に申し訳ございません……)
 私は、絶えまなく謝罪の言葉を述べる女性を見つけた。
「申し訳ございません……。哲哉が……哲哉が皆様にご迷惑を」
(ああ、この人は……)
 哲哉くんの母親である、柏木沙希さんであった。
 最初に哲哉くんを診療した時、傍らに座っていた――その時も、哲哉くんはイライラして私に突っかかってきたが、彼女はやはり謝りっぱなしであった。まるで、"自分の失敗であるかのように"。
「お母さん。これは病気ですから、お母さんのせいではありませんよ」
 やや酸欠気味に、呼吸を荒くしている坂上医師は、ひたすら謝るその母親に微笑んだ。
 そう、病気なのだ。もちろん病前性格(なりやすい性格)というものもあるし、ストレスも原因する――が、遺伝的体質という半ばどうしようもない要素が、絡んでくることもありうる。
 "決して、母親の失敗などではない"。
「先生」
 私に向けて話しかけてきたのは、菅野看護師だった。
「申し訳ございません。わざわざ呼び出してしまって……」
 私は、室内へと入ると、その奥のベッドで眠っている江口一樹くんの寝顔を覗いた。
「いや、いいよ。どうやら坂上先生はへとへとのようだしね。今日の午後は、僕が見張り役に徹しよう」
 私がそう言うと、菅野さんは小さく頭を下げて、僅かながらに微笑んだ。彼女の微笑みを見るということは――正直言って、あまり経験がない。
 どう反応していいかも――そんな当惑のうちに、私は無難な"同じような笑顔での応対"を選んでいた。

 私と坂上医師、それから二、三人の看護師は、医務室で待機していた。この時間帯は、外来診療の数も少なく、比較的ゆったりしたペースで時は流れる。
「菅野さんってさ――」
 苦痛でもない(むしろ居心地良くすら感じる)医務室の沈黙を裂いたのは、坂上医師だった。彼は隣の私に話しかけてくる。
「もしかして、君のことお気に入りなんじゃない?」
 冗談で言っているのだろうか。彼はにんまり微笑んだ。私も――つい、その冗談に付き合ってしまおうとして――本人が居ないことをいいことに笑みを浮かべて、
「モテる男はつらいね」
「はん、言うねえ」
 坂上医師は愉快そうな笑みを絶やさずに、自身の顎鬚を指でさらさらと擦った。
「美人ってほどじゃないが、良い奥さんにはなると思うよ」
「まあ、家庭よりも仕事を取りそうだけどね」
 私の言葉に、坂上医師は「確かに」と腿を叩き、笑いながら頷いた。おそらく、いつもきちんと書類を整理して、後輩の看護師には厳しく指導していく――あのイメージを思い浮かべたのだろう。
 そんな私達のやりとりに、若い女性の看護師は冗談半分に眉を顰めながら、私達にコーヒーを淹れてくれた。
「いやな会話ですね」
 彼女は小さく呟いた。
「いやいや、男の好みを知ることも、結婚するための重要な情報だと思うがね」
 坂上医師がそんな軽口を叩いた頃であったか、菅野さんが戻ってきた。
「戻りました」
「ああ、お疲れ」
 先程あんな話をしていたからだろうか。坂上医師は若干笑いを堪えきれずに、口元を手で押さえた。無論、私も笑いたい気分ではあったが、それを必死におさえて労いの言葉をかける。
 坂上医師の不可解な仕草に、菅野さんが怪訝そうな眼で見つめるのは、当然のことだった。
「柏木哲哉さんの保護者の方が、彼の傍でリンゴを剥いておりましたので、また何かありましたらお知らせくださいとだけ……言っておきました」
 菅野さんの報告に、坂上医師はひどく感心したように、
「麗しき母の愛ってやつだなあ。『哲哉や、起きたら食べなさい』ってことじゃないの」
と、うんうん頷いた。
「まあ、薬の作用で朝までは眠っているだろうから、大丈夫だろうね」 
 坂上医師の言葉に感化されたのか、私も半ば楽観的に菅野さんに告げる。
 しかし――私は思う。
 本当にあれは、"母の愛"だったのだろうか。(すみません……すみません……)あの謝罪は一体誰の為のものだったのか。子供……?自分の子供の非を一身に背負って――という見方もできるだろうが、あれはむしろ……。
 そう、あれは"自らの非"に対する謝罪ではないのか。
「まあ……」
 私は、一旦思考を停止させ、あくまで医師としての提言をする。
「鬱状態になったら、薬の服用を止めるようにしよう。おそらく本人は薬を望むだろうが――そこは、心を鬼にして。いいね」


Y.この夜

 柏木沙希は、帰る間際であったのだろうか。医務室に"お詫び"のまんじゅうを残していった。もちろん、病院側としては物を受け取ることをきちんと拒否していた。
 だが彼女は、医務室の扉を出たところに廊下に、その"お詫び"を立てかけていたので、仕方なく病院側でそれを処理した。
 時刻は午後六時三十五分。沢村は、小さく溜息を吐いて、真っ暗になった外の世界を眺め見る。
(ん……) 
 不意に――瞼が重くなった。
(まだ、六時だというのに。疲れているのかな……?)
 そういえば――と沢村は思う。今日の休日出勤で、二十日は休みを得ていないと計算が導かれる。
 訪れた睡魔は、一瞬のことではなかった。まるで脳に絡みつくような、甘く執拗な快楽。(眠ってはいけない……)うとうとと……その快楽は次第に大きくなって、沢村はついに机の上に突っ伏してしまった。
(眠っては……)

 場面は瞬間的に切り替わり、柏木哲哉と江口一樹の部屋へと変わった。廊下の電気と、窓からの薄明かりが彼らを照らしていた。
「おい」
 すっかり覚醒した柏木哲哉が、隣の一樹に呼びかけた。
「なあに」
 一樹の間の抜けた声。成人男性とは思えない――まるで子供のように透き通った声。対して柏木哲哉の声は低く、擦れたものであり、同じような年齢でもまるで正反対のように思える。
「子供みたいなやつだなあ」
 お互いはベッドで横たわりながら、首だけ向き合って話している状態である。哲哉は溜息をついた。しかし、哲哉は不思議と――自分とは正反対な、その純真な性格に興味を覚えた。"汚れたこと"をしたことが無いのだろうか、と。
 別に窃盗や殺人など、そんな大層なことでなくても――たとえば、女を抱いたこととか。
 一樹は立派な成人である。恋愛は、経験をしていても別に気妙ではない。だが、もっと、"生々しい具体的なこと"は、自分の隣の少年からは想像できなかった。爽やかな容貌で、何も知らないような純粋さを持ちながらも、獣のように女を貪る――。
 哲哉はそんな想像を膨らませると、ゾクゾクと震えるような、全身から沸き起こる興奮を覚えた。
「お前ってさ、女とセックスしたことあんの」
(せっくす……)
 一樹は、首を傾げる。やはり一樹は何も知らない。哲哉もそれは予想していた事であった。
「女を抱くことだよ。自分の意のままに腰を振って、女は喘ぎ――時には泣くんだ。最高だぜ」
 哲哉は下劣な笑いを見せた。柏木哲哉は、逮捕歴がある。罪状は強姦罪――しかし、本人には精神的異常が見られるために、無罪となった。
 法廷の場で、被害者が見せた涙。無理矢理犯されたというのに、犯した相手が裁かれないという苦しみ。被害者は夜が来る度に怯えて、今も暮らしているのだろう。そんな苦しみや悲しみが、哲哉には到底理解できなかった。何故ならば、"自分は何でもできる"からである。
 犯しても、盗んでも、殴っても、殺しても――何をしても。
「泣くのは、可哀想だよ……」
(――……て!……なさい!カズキっ!)
 一樹の脳内に、何かが――何かが過る。これは……
「泣いてもいいんだよ。女は感じてるんだから。いたぶればいたぶるほど、女は泣きじゃくって……」
(あの雨の日、ナイフ……)
(――ダメ……!……げなさい!……から……!)
「『許して許して』と命乞いするんだ。そうなったらしめたもんさ……」
(――……だけは……!お願い、許して……!)
(お母さん……お母さん、お母さん)
「その女はもう俺のものに……おい、どうした……?」
(――カズキっ!)
 一樹はカッと目を見開いた。(僕が殺した……)一樹の視界がぐるぐると回り、固定されないままに、"哲哉の傍にある銀色の光を見た"。(血で真っ赤になって……)
(あの時と同じ……真っ赤な血)
(あの時と同じ……真っ赤なナイフ)
 一樹の視界は、徐々に暗くなり――やがて何も見えなくなった。
(お母さんは死んだんだ……"おんなじように")


Z.事件

 翌朝、菅野さつきは、江口一樹、柏木哲哉の朝食を運んでいた。
 明らかに眠たそうな表情。欠伸をしたいけれどもそれをくっと堪えた。仕事に怠惰は不要。そういう信念が彼女を律していたからであった。
 まだこの時間帯は活気がなく、ただ小鳥のさえずりと僅かな足音くらいしか聞こえない。そんな病院の一面もまた、菅野は好んでいた。
 ――着いた。彼らの病室に。
(まだ眠っているのかしら……)
 時刻は午前七時三十分。腕時計を見て確認する。
 彼女なりの気遣いから、ドアの開閉の音を立てずにそっと開いた。
(え……?)
 赤。
 部屋の通路に点々と付着した、赤いもの――(これは、まさか……)いや、これは赤い"液体"であった。菅野は咄嗟に辺りを見回す。彼らのベッドはカーテンで閉じられている。急いで、手前側の柏木哲哉のベッドのカーテンを開けた。とてつもない"最悪の事態"が待ち受けていると、半ば確信しながら――
「いやあああっ!!」
 菅野は、やや間の抜けた高い声をあげた。一歩――また一歩、後ずさりをして、カクンと腰が抜けたせいで、尻餅をついてしまった。
 その事態は、現実のものであった。ベッドはどす黒い血で汚れ、上半身が真っ赤な血で染まった哲哉の虚ろな目が、菅野を恨めしそうに捉えていた。
 菅野はすっかりパニックとなって、最初に何をすべきか――どうしてもその思考にたどり着けない。まるで犬のように呼吸を小刻みにして、目を丸くし、懸命に立ち上がろうとする。
「せ、先生に……」
 壁に凭れかかりながら、ようやく立ち上がると、今度は"もう一つの不安"が彼女の心に追い打ちをかけた。
(か、一樹さんは……!)
 よく見ると、その床の血は一樹のベッドにまでも向かっていた。出来ればカーテンを開けたくはない。同じような惨状であったらと思うと、足が竦む思いであった。
 しかし、患者を守らなければならないという看護師の義務が、彼女に僅かばかりの勇気を与えた。菅野はゆっくりゆっくりと、衝撃が大きくならないように、カーテンを開けていった。
 菅野の"最悪の予想"とは裏腹に、一樹のほうは静かに目を瞑り、寝息を立てていた。
(良かった……) 
 ほうっと安堵の溜息を洩らした瞬間――重大なことに気づいた菅野は、再び全身が強張った。よく見ると、その手にナイフが握られている。"べっとりと血の付いたナイフが"。

 菅野の大声で、医務室のソファで眠り込んでいた沢村が起こされたのは、それからまもなくの事だった。
 そして彼も――目を大きく開いて、その惨状を見た。
「なんて……なんてことだ」
 惨状を見たことによる衝撃、そして鋭い頭の痛みで、沢村は思わず屈みそうになってしまう。
「菅野さん、警察に……そう、警察に連絡を」
 菅野は震えつつも頷くと、慌てて走り出した。沢村は襲い来る吐き気を堪え、口元に手を押さえながら、哲哉の死体に近づいた。
 死因は――心臓を刺されたことによる即死。寸分の狂いもなく心臓を貫かれている。
 そして問題は……江口一樹。血がべっとり付いたナイフを手に持っていた。
(もしや、本当に彼が……?)
 沢村は、一樹の無邪気な寝顔を眺め見る。一度そういう疑いを持ってしまった以上は、その無邪気にも邪気がありそうな――そんな疑念を不覚にも抱いてしまう。
 その時である。一樹の目がパチッと開いた。
「――センセイ、どうしたの」
「ああ、いや……」
 思いがけない不意打ちに、沢村はただ動揺した。だが、そこで怯みはしない。なぜなら一樹の担当医は沢村自身である。一樹を恐れてはならない。そういう強い気持ちが、沢村を後押しした。
「落ち着いて聞いてほしいんだ。哲哉くんが、亡くなった」
 一樹の眼が一瞬大きくなった。だが、次第に目を細めて、隣にある"死体"をチラリと見た。そして、自分の手に握られているナイフも――。
 沢村自身も、まずは自分の心を落ち着けるよう懸命に努力して、一樹を見つめる。
「教えてくれ、哲哉くん……君は」
「僕がやったんだ」
 一樹の思いがけない自白に、今度は沢村の目が丸くなった。信じられなかった。沢村はもう一度よく考えるように一樹に詰めいった。しかし――それは無駄だった。
「センセイ、僕が殺したんだ。お母さんと同じように……僕が」
 沢村の、一樹の肩を掴む手は途端に力を無くし、ぶらりと重力に従った。


[.沢村精神科医の視点(5)

 朝の静けさはサイレンによって掻き消され、病院の駐車場に二、三台のパトカーが止まった。
「おはようございます。この事件を担当させて頂きます、山辺といいます。どうぞよろしく」
 体育会系を思わせる体格の良さとは裏腹に、物腰の穏やかな初老の刑事だった。そして、その背にくっついているのは、部下の川口と言うらしい。此方はと言うと、若干肥満体で眼鏡をかけており、アウトドアというよりはインドアであろう――などと、そんな想像を膨らませてしまう。
 私達は手短に握手を済ませると、足早に事件のあった病室へと向かった。
「その少年は、犯行を自供している――と」
 私は、なるべく曖昧な返事をした。私自身そのことがあまり信じられなかったし、もしかしたら信じたくなかったのかも知れない。しかし、山辺刑事は大きく頷いて、
「なるほど。では――」
「本人の自供だけで、犯人だと決めるのですか」
 私の口出しに、山辺刑事は目を丸くしていたが、やがて小さく笑った。
「そんな横暴なやり方はしませんよ。きちんと裏付けも取らなければいけませんからね」
 私の言葉がそんなに可笑しかったのか。愉快そうに笑う山辺刑事に対し、私は大人げなくムスッと黙り込んでしまった。
 
 病室に到着した。できればもう、私はあの光景を見たくはないが、中には菅野さんも坂上医師も――そして、一樹くんもいる。今更逃げることはできないと、腹をくくった。
「こりゃあ……」
 刑事の溜息と共に、私自身もその惨状に絶句せざるを得なかった。嫌になるくらいに赤くなったベッドシーツ、その血飛沫はベージュ色の壁にも飛んでおり、どれほど勢い良く血が飛び散ったかを物語っていた。
「で、君がやったのかい?」
 山辺刑事は、意識してなのだろうが、軽い口調で一樹に問いかける。
 しかし、それでも一樹くんは神妙な面持ちでこくりと頷いた。彼は、まるで力が抜けたかのように椅子に座り込んでいた。
 そんな反応に「ふん」と山辺刑事は頷き、犯行に使われたという"ナイフ"を白い手袋で持ち上げた。それを興味深そうに眺めると、山辺刑事の目先は私に向けられた。
「とりあえず、江口一樹くん……でしたかな。彼の病室を、早急に移してもらえませんか」
「え、ええ、わかりました」
 私は頷いた。おそらく、現場を荒らされることを阻止する為だろう。だが――無理矢理一樹くんを拘束するのかと思いきや、刑事はその点に関し、意外と寛容であった。
「これから鑑識が来ます。しばらくうるさくなると思いますが、その点はご了承ください」
 山辺刑事はニコリと微笑んで、私達を全員廊下に出した。一樹くんは、菅野さんが支えながら――よたよたと退出した。

「菅野さん」
 私は廊下に出るや否や、菅野看護師に声をかける。
「はい」
「一樹くんと一緒に話がしたい。空き部屋に移動したら、少し二人だけにしてくれないかな」
 私はチラリと、まるで力が無くなった少年を見た。一樹くんもまた、僕に助けを求めるような眼をしていた。
「ええ、ああ……はい」
 一瞬、菅野さんの言葉に迷いが見えた。おそらく、一樹くんが犯人だと仮定するならば、二人きりにするのは危険だと見越したのだろう。だが、菅野さんは頷いて、
「では、私は――柏木さんのお母さんに、連絡を」
 それが一番つらい仕事だと、私は思った。急に、我が子が殺されたことを知らされたら、どんな気持ちになろうか。だが、"いずれは知らさなければならない"。それは、遅ければ遅いほど都合が悪い。この壮絶なディレンマは、おそらく私ですら耐えられるかどうかわからない。
 そんな時に、坂上医師は名乗り出た。
「菅野さんにばかり汚れ役を引き受けさせるわけにはいかないな。僕も行こう」
 坂上医師も、非常に緊張した面持ち――おそらく今までに見たことが無いくらいに――で菅野看護師を見つめた。
 私は、一樹くんを見つめ直した。彼の心底怯えたような表情。一体何に怯えているのか……?母親?いや、これは――"自分自身"?
「さあ、行こう」
 私は、一樹くんの背中をそっと押した。


\.告白

「まずは、君の正直な思いを聞かせてほしい。本当に――殺したのかい」
 沢村は、お見舞い用のパイプ椅子に座って、真っ白なベッドに座る一樹に問いかけた。すると一樹はしばらく俯いて、
「殺した――と思う」
と呟いた。今朝に比べて随分と曖昧な表現である。沢村は、その点を揺さぶった。
「殺してない、という事も考えられる……?」
 やや首を傾げて、少年の顔を覗き込みながら、沢村はまるでカウンセラーのように質問を繰り返した。
「僕は――僕は、同じものを見たんだ」
「同じもの」
 沢村は繰り返した。少年は、真っ直ぐにその精神科医を見つめ、話し始める。
「昔――僕の、僕のお母さんが死んだ時」
(ああ、それは……)
 沢村は小さく頷いた。平成九年の母子家庭強盗事件。
「あの時(そう、あの雨の日……)、知らないおじさんが二人――家の窓を割って入ってきたんだ。お母さんは夕飯の支度をしてた。(トン、トン……野菜を包丁で切る音が途端に止んで)僕は、お母さんのいる台所に行った。そしたら、お母さんは喉元にナイフを突き付けられてて……」
 彼の回想と共に、時間は九年前へと戻る。そう、あの惨劇の時間へと――。


「――おい!ガキッ!こっちに来るなよ」
 幼い一樹は、直立不動になったまま、男達にナイフを突き付けられている母親を見つめる。
(なんだろう、この人たちは……)
 妖しげに光るナイフの切っ先は、母親の首に着くか着かないかのところで停止していた。一樹はそれが如何なる意味であるのか、さっぱり分からなかった。鬼のような顔で此方を脅す男二人も、額から汗を流しながら、大きな瞳で此方を見つめてくる母親も。
「よおし、いい子だ。そこでずっと立ってなよ」
 一人の男――そう、それはナイフを突き付けている男――が、母親の胸へと手を伸ばした。母親は悲鳴を上げた(おかあさん……!)。そして、もう一人の男が、ゆっくりゆっくりと一樹の元へと歩み寄ってくる。
「一樹……!逃げて……!逃げなさい、一樹!」
 母親の大声に、ビクッと一樹は肩を震わせる。それと同時に、その近づく男に急に恐怖を覚えた。無気味に笑うその男に向けて、視線が硬直した。
 母親は無理矢理、男に口を犯された。「逃げて」という言葉が、口を塞がれているせいで籠り、一樹には届かなかった。しかし、男の口を懸命に避けて、大声を出す。
「ダメ……!逃げなさい!"殺されちゃう"から……!」
 近づいてきた男のズボンが、視界全体を支配した。
(殺される……?)
「うるせえ!」
 母親の頬を思いっきり殴った。彼女の眼には涙が浮かんでおり(お母さん……泣かないで、お母さん)、口の中が切れてしまったのか、口の端から真っ赤な血がツーと流れ、一樹はようやく――男達が"自分と母親を害する者達"という認識が生まれた。
「一樹だけは……っ!お願い、許して……!」
「一樹!逃げてぇええ!」
 母親の、悲鳴に似た息子への要求。一樹はようやくその要求に頷いて、その場に背を向けて逃げ出そうとした。
 ――その時だった。
 一樹の母親の喉に、突き刺さったナイフ。それは赤い噴水を生んで(真っ赤な血……真っ赤なナイフ……)、今までの彼女の大声が嘘であったかのように、その場に静寂が支配して、ただ動かなくなった人形を中心に、赤い水溜りがフローリングに出現した。
「お前だ」
 男の一人はナイフを床に落とした。
「お前が逃げるから、お前の母親は死んだ」
「お前が母親を殺した」
(僕が……殺した。お母さんを……)
「母親は、お前を恨むだろうな。お前に殺された、お前に殺されたってよ」
 ――オマエニ、コロサレタ。
(僕は……僕は……お母さんを、殺した)
 ドン、ドン――玄関の戸を叩く声。近所のおばさんの声が聞こえ――男達は、慌てて窓から出て行って、そして……――


「そして、僕はおばあちゃんの家に引き取られたんだ」
 何ということだろう。沢村は口元を手で押さえた。そしてゆっくりと、一樹の手を両手で包みこんで、彼の味わった苦痛に苦悶した。沢村の眼から涙が零れ落ちた。それは、単なる悲しみではない。彼の精神を治療しようとしていた己の愚かさ――自分に対する後悔の念なのかも知れない。
「センセイ、あの人みたい」
 沢村は溜まった涙を指で拭いて、首を傾げた。
「昨日僕が殺した――あの人」
(柏木哲哉くんが、泣いた……?)
 あの暴れていた反抗的な柏木哲哉が、一樹に涙を見せたという。
「でも、あの人は、僕のお母さんをいじめるおじさん達と同じだった。泣いても泣いても殴ったりいじめたりして……それで悪いとも思わないで、だから僕は――」
 なるほど。沢村は深い溜息のうちにすべてを理解した。柏木哲哉は以前、強姦や窃盗で逮捕されていたという情報を聞いていた。あの夜――おそらく、哲哉は一樹に、強姦した際の一切のことを話したのだろう。その強姦の内容が、"一樹の母親が犯人にされたことと酷似していた"。
「もしかしたら、僕……それで、あの人を……」
 殺した。一樹はもはや自分の犯行を信じて、疑わないようだった。
「あの人、泣いてた。きっと僕が殺そうとしたから、怖くて、怖くて……それでも、僕は殺した」
 一樹は取り乱したように、大声で泣き始めた。沢村の白衣にしがみつきながら、病院全体に響き渡るように。
「落ち着くんだ。まだ、君がやったと決まったわけじゃない」
 そう、まだやったと決まったわけでは。沢村は自分自身に言い聞かせるように、その言葉を頭の中で繰り返す。しかしこの状況では、一樹が殺したという線が濃厚であることも、事実であった。


].真相

「あのナイフには、"江口一樹本人の指紋しか見つかりませんでした"」
 山辺刑事は、精神科医務室に公的に報告した。それはおそらく、「一樹が犯人であるという裏付けが取れた」ということである。沢村は軽く首を傾げた。誰か部外者が殺したというのなら、手袋などをはめて、自分の指紋など残さないだろうと、刑事ドラマか何かを見て思ったからだった。
 だが、やはり江口一樹の自白は強力であったのだろう。警察は、一樹が犯人であると前提の上で、裏付けを進めていたのだ。
 沢村の他に、もう一人首を傾げている人間がいた。それは――菅野さつきだった。
「何か気になってるのかい」
 沢村は小声で、菅野に尋ねた。彼女は両腕を組んで唸り、
「なにか、違和感を感じるんです……なにか、こう"重大なことを見落としている"ような」
「違和感?」
 菅野は再び唸り始めた。出かかっているような――何かきっかけがあれば、それが出てきそうな――そんな歯痒い表情が見て取れる。
 山辺刑事が一礼をして、医務室から出ていった。緊張した雰囲気が一気に解かれ、医務室は次第に、いつもと同じようなのんびりとした空気へと戻った。だが――沢村には、若干のピリピリした空気は感じられた。
(無理もない、か)
「そういえば、哲哉くんのお母さんは――やはり、まだショックが大きいのかな」
 沢村がそう言った瞬間であった。何かのきっかけがあったのだろうか、「あっ」と菅野は素っ頓狂な声をあげた。
「そう!そうです!実はあの――」
 菅野は"出かかった違和感"の正体を、沢村に告げた。沢村はペロッと舌で唇を濡らして、目を見開かせた。不可解な現象が一つの線へと結びつき、全てが――見えた。
「――そうか。なるほど、そういうことだったか。」
「そういうこと、とは?」
 菅野は眉を顰めた。そんな怪訝そうな彼女の視線に気づいたのか、沢村は慌てて「何でもない」といった風に振舞った。
「いやいや――それより、私も哲哉くんのお母さんに挨拶しておこう。哲哉くんの担当は私だ。弁明の責任は私にあるだろう」


 病院の裏庭は、綺麗な花が咲いていた。青い――青い空。
 この天気ならば、一樹は母の亡霊に悩まされることはない。沢村はそんな事を考えながら、哲哉の母である柏木沙希と共に歩いていた。
「申し訳ございません。此方の不注意で――こんな事件が起こってしまって」
「いいのです……もう」
 沙希は俯いた。本当に、本当に哲哉の死を嘆き悲しんでいた。おそらく、この気持ちに嘘はないだろう。沢村は目を細めて、憐れむようにその母を眺め見た。
「失礼を承知で、私は今から――あなたに私なりの考えを話したいと思います。どうか、気分を害さないでいただきたいのです」
 沙希は首を傾げた。
「"哲哉くんを殺したのは、あなただったのではないですか? お母さん"」
 ひゅうっと突然の風が、沢村と柏木沙希を取り囲んだ。
 沙希の生唾を飲み込む音が、沢村にも聞こえるほどに大きく響いた。しかし――沙希は何も喋らない。ただ無言を保っているばかりである。
「そういえば――お母さんが持ってきてくれたおまんじゅうを私が美味しく頂きました。あなたはあれに、哲哉くんに処方してあった"睡眠導入剤"を入れましたね。あれに気づいたのは、そう、一樹くんの話を聞いてからでした。"彼らはあの夜、二人で話していた"という話をです。――私達は哲哉くんが暴れないように、やや多めに抗不安薬を、点滴器具で注入しておりました。当然、朝まで起きないだろう量を」
 沙希は変わらず沈黙を保ち続ける。たまにチラチラと視線を変える程度だ。沢村は話を続けた。
「それが意味すること――すなわち、あなたはあの点滴の薬を利用して、それを饅頭の中にいれて私達を眠らせようと考えたわけです。だから、十分な睡眠を得られるまで、哲哉くんの身体に入ってなかった」
 沢村は目を丸くして、自分の話が間違っているか――それとも正しいのかを、沙希に問う。沙希はもはや抗うつもりはないようで、小さく口を開いて呟いた。
「続けてください……」
「ええ、わかりました。もちろん素人の考えに過ぎませんから、あまり本気になさらず。実は――奇妙なことがわかりまして。あなたは昨日、哲哉くんにリンゴを剥いていましたね。それは菅野さんが見ていました。まことに微笑ましい光景であると、医務室で話題にもなりましてね。そして、そのナイフは犯行に使われた。けれども、そのナイフには……」
 沢村は沙希に背を向けると、一拍置いて、
「そう、"あなたの指紋が全くなかった"。本当に一樹くんの指紋だけだった――では、あなたの指紋はどこに消えたのでしょうか。あなたはおそらく、哲哉くんを殺したあとに何かで指紋を拭き、一樹くんの手にナイフを握らせた。違いますか?」
 沢村はその背に、彼女――柏木沙希の溜息を感じた。いくらかの沈黙が中庭を支配した上で、沙希は告白した。許されるべきではない"子供殺しの罪"を。
「そのとおりです、先生」
「なぜ」
 沢村は半ば反射的に身を乗り出した。母が子を殺す理由――。「子が母を殺すこと」と同等の苦しみを味わうことにある――そこまでして実行した理由は、一体なんなのか。沢村には理解できなかったからだ。
「あの夜、聞いてしまったのです……あの恐ろしい話を」
(強姦、か)
 一樹に、自慢混じりに語り出した哲哉。彼の後ろには――彼の母がいた。
「自分の子ながら、恐ろしく感じました。何も知らない女性を強姦したあの事件。結果は無罪となりました。その理由は"精神的安定が見られない"というものからです。しかし、哲哉は自分が犯したことについて"何も苦しんでいなかったのです"。不思議なことにそれが許されるのです。今の刑法は……!
 後悔すらしていない。むしろ、愉快そうに――下劣な笑みを浮かべながら、あの子に語っていました。
 だから、私はナイフで胸を刺しました。実の息子を。何の躊躇もなく……」
 沙希は、まるで堰を切ったように、感情があふれ出した。
「あの子は……"私の失敗"です。私が責任を持って……あの子を止めなければなりません。ですから……」
「失敗などではありません!人間に失敗などない!」
 沢村は大声をあげた。そう、それが生命倫理の根本だ。医者が存在する理由だ。沢村はそれだけは曲げてはならない――と思う。熱くなった頭を左右に小さく振ると、沙希の肩を両手で掴み、落ち着いた口調へと戻る。
「――私の話は終わりです。警察に告げるつもりはありません。ただ、一樹くんには本当のことを話してほしいのです。彼は、また自分が殺人を犯したと自身を責めています。実の母を、そして隣人を、自分が殺したと思い込んでいるのです。ですから――彼にだけは」
 彼女は泣いていたのだろうか。沙希の赤く腫れぼった目が、沢村を見つめていた。
「それから、あなたは――"何の躊躇もなく息子を殺した"と言っていました。しかし、それは違う」
 沢村もまた、沙希を真っ直ぐに見つめた。
「一樹くんはこんなことも話してくれました。哲哉くんが泣いていた――と。あれはおそらく、彼の眼に涙を見たのでしょう。しかし、その涙は"彼のものではなかった"。今まさに息子を殺そうとする"母であるあなたの涙であった"のではないでしょうか。すなわち、あなたの涙が、息子の頬に落ちた――ということです。
 "人間として"息子の命を絶ってしまいたい。しかし、"母として"息子の命を絶ちたくはない。
 そんなディレンマが――きっとあなたの中には存在していた。そうでしょう?」
 沙希は目を瞑った。そのうちじんわりと、そこから大粒の滴が絶え間なく流れ、身体が崩れ落ちた。

 
 その瞬間こそが、沢村の中で、事件が全て終わった瞬間であった。
 その後――柏木沙希は、一樹に事の一切を話した上で謝罪した。そして、警察にも自首を決心した。
 やはり、つらすぎるのだと沢村は思う。親を殺したことについて、こんなにも悩んでる青年がいる。そして、子を殺すこともやはり、一生つきまとう"悪夢"なのだ、と。



――了――




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