牢獄


 手には赤く染まったナイフを握られていた。
 壁から左半身だけを覗かせた少女が、じっとこちらを見ている。
 少女の瞳に映るのは、私への恐れではなく、至極無邪気で純粋な、復讐そのものだった。
(来ないでくれ)
 少女に対する矛盾した要求が、頭の中で交錯した。
 少女は微動だにせず、また表情も人形のように硬直して、口元だけがうっすらと吊り上った。
(来ないでくれ……来ないでくれ!)


***


 それは、せっかくの日曜だというのに雨――それも、雷鳴轟く豪雨の日だった。
 大粒の雨がガラス戸に纏わりつく様子を見ると、長い年月をかけ、作為的に忘れようとしたある出来事が鮮明に蘇ってくる。私はそんな雨の日がたまらなく嫌いだった。雨は私の心を逸らせるのだ。せめて、室内では心の安らぎを求めようと、優雅に新聞をめくった。
 新聞記事で、まず最初に飛び込んできたのは、二十五年前に世を騒がせた強盗殺人の記事だった。一家が全員殺され、しかし三女の娘は行方不明だというものだった。丁度、明日で時効を迎えるという。つまりは、法的な追求能力が消える、それだけの事だった。しかし、それに何の意味があろうか。殺人を犯した者は、その殺した人間の亡霊と、遺族の生霊に、生涯苛まれなければいけないのだ。
 次に目についたのは、芸能人のご懐妊だった。個人的な見解に過ぎないが、芸能人同士の結婚というのは短命に終わる。そのように、私は確信していた。私は自分という男がつくづく嫌な男だと思うと、苦笑が自ずとこみあがった。
 妻が私の前に、淹れたばかりのお茶を置いた。
「ありがとう」
「いいえ」
 湯飲みからは香ばしい湯気が立ち上る。
 私は新聞を畳むと、私の心を残酷に突き刺す雨に、怯えていた。
「ねえ、あなた。」
 妻は私の向かいに座り、静かな口調で呼びかける。思えば私は、一緒になって20年の間、彼女の心の底を見た気はしなかった。今、私を呼ぶ眼もまた、なんと無機質なものであろうか。しかし、容姿は40近くなっても端麗のまま、料理は上手で、私への気配りは一級である。私は、これが、彼女の性格のたったひとつの難なのだと、自分の中で納得せざるを得なかった。
「今日はいい雨ですね」
 妻は同じくお茶を啜り、ガラス戸に広がる灰色の景色を眺め見る。目を輝かせ、私の雨に対する反応とは対照的だった。思えば、妻は雨を見ると、愉しげに私に話しかけてくるのだ。それが激しければ激しいほど、いつもの静かな妻の心は熱く燃えてくる。それは夜の営みの最中でも同じことだった。だから、私が欲を発散する日は、雨の降る夜と自ずと定まってきたのだった。
「新聞、お読みになりました?」
「ああ、読むのか?」
「はい」
 妻に畳んだ新聞紙を手渡しした。珍しいことがあるもんだ。私はまじまじと、妻が新聞紙を手に取る姿に見入った。妻は新聞を読まない女だった。どうにも活字が苦手らしく、新聞購読はまさに私だけの為の有料サービスだった。妻は何に興味があるのだろう。私は少し腰を浮かせ、覗くようにして、新聞に遮られた彼女を見た。妻は新聞の上から飛び出た私の顔を、チラリと見た。
 気のせい、だろうか。私を見るその目は、熱い何かが秘められていた。

「あなた、明日は何の日か憶えてます?」
 新聞を読み終えたのか、丁寧に畳み折ると、私に向けて首を傾げた。私は湯飲みに残された茶を一息に飲み干すと、待っていたと言わんばかりに、私は答える。
「結婚記念日だろう。そういえば……ちょうど二十年だな」
「……そう、ですね」
 妻の視線は一瞬落ちた。思えば、二十年前に一緒になったあの日から、妻の態度は変化しない。子供は何かを隠す時、それを背に一歩も動かなくなる――そんな状況を思い浮かべる。
 もちろん、私も妻には隠し事があった。しかし、それは誰にも語ることは出来ない。だから、妻に隠し事があろうとも、それはお互い様だと納得していた。それが正しいかどうかは、定かではないが、そんな関係が二十年の時を越えたのは、紛れも無い事実だった。
「結婚記念日も、そうですが……。いえ、明日は期待しております」
不意に見せた彼女の微笑みに、私は困ったような表情で、笑い返した。

 今日は雨が降っているということもあり、晩御飯の買い物へは、妻と共に車で行くこととした。
 
 一向に雨が止む気配もなく、空は暗くなった。
 私と妻の、二つの布団が部屋を支配していた。傍には電気スタンドが灯りを燈らせ、それから、ラジオがニュースを淡々と読み上げていた。妻は私に背を向け、毛布に包まっていた。
 私は少し息を吐くと、毛布の中から外へと手を伸ばし、電気スタンドの灯りを消す。ラジオの放つ青白い光が、一瞬にして、部屋を不気味に染色した。

「ねえ」
 既に眠ったかと思っていた妻の声。
「どうした」
「明日が何の日か、本当に憶えていませんか?」
「だから、結婚記念――」
「違います」
 妻の背は強く否定する。妻の声は初めて生きていた。



「明日は、あなたが自由になる日、です」

 私は硬直した。まさか、まさか妻は知っていたのか。私は、どういうことだ、と知らぬふりを装うような口調で、思わず横になった妻の肩を揺すった。妻は私の方へと寝返った。暗い部屋の中、ラジオの光で彼女の蒼白の容貌が浮かび上がった。
「何も知らないと、思っていましたか? 私が何も知らないと思っていましたか?」
 毛布から浮き上がってきた妻の手は、私の頬をゆっくりと這った。

「あなたは、二十五年前、私のお父さんとお母さんを、殺したんです」

 私は絶句した。そして、あの時の記憶が強く蘇り、私の脳内を支配した。
 その記憶は私がずっと鍵をかけていた出来事だった。
 
 あれは強い雨の日だった。私は欲に塗れていた。金に貪欲だった。金さえあれば何でもいいと思い始めていた、言い換えれば、思い詰めていたところだった。
 私はとある大きな邸宅に佇んでいた。障子はなぜか赤く染まり、おそらくそこの主であろう男は、血を噴いて倒れていた。廊下に出てみると、今度は夫人の屍だ。私は周りを、不思議と落ち着いて見回した。金庫が開いていた。私の眼は獣と化した。
 すると、背後から視線が突き刺さるではないか。壁から左半身だけを覗かせた少女が、じっとこちらを見ている。
 少女の瞳に映るのは、私への恐れではなく、至極無邪気で純粋な、復讐そのものだった。

 そう、私は、人を殺した。金を奪った。そして、少女を逃がしたのだろう。
 その少女は、それ以後、私の前に姿を見せたことは無い。と私は今の今まで思っていた。しかし、妻の瞳は紛れも無く、その少女だった。
 あれから二十五年経った今でも、妻は少女の瞳を忘れていない事に、私は青ざめた。そして、震える。私の頬を伝う妻の指先が、次第に熱くなっていくのを感じたからだ。妻の爪が、私の頬に傷をつける。鋭い痛みが、顔全体を強張らせた。
 妻は、微笑んだ。
「明日で、あなたの罪は無かった事になるんです。警察は、もうあなたを相手にしません」
 青白く光る妻の妖艶な笑みとは裏腹に、妻はその指先を、私から決して離そうとしなかった。
 ある疑念が頭を過ぎる。なぜ、妻は私を警察に通報しなかったのか。というより、なぜ妻は、私が自分の親を殺したと知りながら、私と結婚したのか。私は全身から来る震えを堪えながら、どうにか口を開いた。
「どうしてだ。どうして、一緒になったんだ」

「もちろん、愛していたからですよ」

 妻は低い静かな調子で答え、さらに続ける。
「警察に通報すれば、おそらく貴方は法によって殺される。私はそれが我慢ならなかったのです。私の、私のあなたなのに、誰ともわからないような人に奪われるのは嫌だったのです。だから、私もあなたと共に二十五年の間、ずっと耐え忍んできました」
 妻はゆっくりと私の布団の中へ移動し、妻の顔が眼前へと近づいた。
「あなたの罪に苦しむ姿が、私はたまらなく愛しかったのです。私はこんなちっぽけな、雨という天候など好きではありません。ただ、雨によって、あの時の事を苦悩するあなたを見ることだけが、私の快楽だったのです。」
 妻の笑みはひどく綺麗だった。いや、いっそのこと醜い笑いを零したならば、いくらかの救いはあったのではないかと思う。だが、妻は、私の予想を上回って冷酷だった。
「俺が憎いんじゃないのか。俺はおまえの親を殺したんだぞ」
「憎いです。今でも憎いです。でも、殺したいなんて考えたことは一度もありません。だってそうでしょう? あなたにとって、苦しみから逃れられる救いは死なのですから。私はあなたに死という救いを与えたくはありませんでした」
 私の頬に残る妻の爪痕は、赤い水滴を漏らした。妻は私の頬に再度手を沿え、爪痕に、蛇の如く舌を這わせる。
「ごめんなさい。私はひどく冷酷な女です。でも、仕方が無いのです。だって、あなたは、私の愛した男、そして、私がはじめて怨みをおぼえた男なのですから――」
 するとその時、ラジオは時刻を告げた。零時零分――罪から逃れられる刻を。
 
 妻はラジオを止めた。途端に部屋は暗闇となり、妻がこちらを向いているか、それとも背を向けているかさえ、把握できない状況となった。
「おめでとう、あなた。私も嬉しいですよ」
 妻が、暗闇から静かな声で祝福する。
「これであなたは私だけのもの。あなたはもう、逃れられないのです。あなたを何かに奪われる心配も、最早消え失せたのです。嬉しい。本当に嬉しい。こんなに幸せな時がやって来るなんて」
 聴覚のみでしか判断は出来ないが、妻はこみ上げる快楽に声を震わせ、笑い声を交えながら、ひどく愉しそうに語った。
 私は、妻の異常な精神に、何か人間ではない異質な存在を感じた。
 目が暗闇に慣れ、次第に視覚が何とか機能を果たすと、私はぎょっと肩を震わせた。妻は暗闇にもかかわらず、"一時も眼を逸らさずに"私を見つめていたのだ。
 悪意もなにも、意図的なものは無い。しかし、あまりにも無表情で私を見つめるその眼は、まさに悪魔だった。しかし、あの少女を悪魔へと変えたのは、紛れも無く私自身であった。
 私の肩の震えは、意に反して、止まる事は無かった。妻は、私のパジャマの襟元へと徐に手を伸ばすと、血が通っていないのだろうかと疑いたくなるような、冷たい右手で私の胸に触れた。

「私が怖いのですか。ではもっと、怖がってください。もっと、悩んでください。そして、私のことで頭の中をいっぱいにしてください。あなたに思われることが、私の一番の幸せです」
 
 妻の高揚は初めて最高点に達した。
 私の怯えを楽しむかのように笑い声を高鳴らし、暗闇の中、興奮して私の体の上に被さり、欲しいがままに接吻する。そして、強く激しい雨は妻の味方になるが如く、さらに激しく降り注ぐ。
 私はいっそう逃げ場の無いことを、思い知らされた。


 そして、私は、永遠に悪魔に貪られた。



――了――



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