無垢な女は森の中で




 光が無数に在った。僕は汗だくになって光の作る陰の部分を見つけながら走っていた。
 喉が渇いた。水が飲みたい。走る事で目まぐるしく変わる暗い景色の中、僕の思考は自分でも数えられないくらいの様々な思いで渦を巻き、大きな騒音と共に光に包まれた。
「逃げろ! ……早く!」
 混迷する僕の意識はひとつの大きな叫び声で閉じられた。
 
 
 気がつくと、僕は真っ白なベッドの上で仰向けになっていた。僕の視界はベットと同じような白い天井の世界で広がっている。僕は暫くその純白に酔うように思考を停止させた。ふと自分の左腕を見ると、僕の腕にはチューブがくっついており、ぶら下がった容器から薬が流れ自分の中へと吸収されていく。薬が点々と滴り落ちるのを見て僕は呟いた。
「…ここはどこだろう」
 おそらく僕の眼はまだ機能を果たしきっていないのだろう。視界が少しぼやけている。隣にあるテレビを満足に見る事さえ、それを可能にするにはある程度の時間を要した。
 僕はただ一人放り出された新しい世界をある一点から眺めていると、ドアの開く音がする。
「鈴木さん。お目覚めになりましたか?」
 看護士の女性。ということはここは病院なのか。僕の思考はようやく重い腰を動かしたようだ。それと同時に警戒心も芽生えてしまったらしく、僕は体が自由にならない分だけ眼での威嚇を試みた。しかし看護士は僕の警戒をよそに、実に軽く口を開いた。
「もう安全です。ここは病院ですよ」
「なぜ私が病院にいるのですか?」
 看護士の言葉を遮るかどうかの所で僕は言葉を発した。一度吹き出た疑問は土石流のごとく豪快に僕の思考を呑み込む。
「なぜ私は点滴を受けているんですか? なぜ私は……私は……」
「落ち着いてください」
 起き上がらんばかりに疑問を投げかけた僕を、看護士は優しく制した。しかし僕の真に欲してるものは献身的な優しさなどではない。答えである。
 看護士は僕から点滴の薬に眼を移すと、流石と言ったような良い手際で新しい薬に取り替えた。
「奇跡的に怪我は軽いもので済みましたね。午後からまた診察がありますから。」
 安堵からなのか、溜息まじりで僕に微笑みかけ、病室から出て行った。看護士の存在しない室内はまたも白い世界へと変貌していく。僕は自身の頭を両手で抱え、こう呟いた。
「僕は……誰だ?」
 何より僕が不安に感じていたものは部屋の純白などではなく記憶の空白であった。そしてそれは、出て行った看護士に対する問いかけではなく、自身に対しての自問の意味合いが強かった。

「自分がどうしてここにきたかわかりますか?」
「わかりません」
「自分の名前がわかりますか?」
「わかり……ません……。まったく、わからない」
 このような医師とのやり取りで、僕は文句無しの記憶喪失といった診断をくらった。まさかとは思ったのだが実際に何も思い出せないのだから、医師に対して否定する事など出来るはずもない。記憶の空白から生じた焦りは、薬剤のボトルがぶら下がった柱を引きずらせ、僕をトイレへと向かわせた。
 バシャッ……バシャッ……。
 冷水を左手で顔にぶつけた。が、記憶は帰ってこない。冷水で夢から目覚めようとも思った。が、期待する現実は僕を迎えにこない。なぜならばこの鏡に映った自分こそが現実だからだ。自分でも足掻きと呼べるこの行為に、次第に怒りがこみ上げてきた。その怒りはなぜかトイレのゴミ箱に向けられ、僕はガンッと力いっぱいに蹴ってしまった。
 僕が孤立された病室に戻ると、一人の女性がベッドの脇の椅子に座っていた。病院で着るパジャマのような服ごしの力の抜けた背中が印象的だった。僕の存在に気付くと、彼女はパッと振り返り僕の眼をじっと見た。正直、僕は彼女の瞳によりも頭に巻いていた包帯に眼が行った。さては、頭を打ったのだろう。
「はじめまして。鈴木さん」
 彼女の唐突な挨拶に、僕は言葉を忘れてただ頭を下げるだけの醜態を見せてしまった。まったく知らない人だ。しかし、僕は記憶を無くしているのだから、過去どれだけ世話になった人との対面であっても僕は感動を覚えることは無い。もしかしたら過去にお逢いした人かも知れないと思い、僕はすかさず尋ねた。
「もしや私の事を知っているのですか?」
「いいえ。……実は私も記憶喪失なんです」
 僕は混乱に陥った。こんなにも記憶喪失とは日常茶飯事に起こる現象なのだろうかと。そして過去を失っても笑みを浮かべている女性を見て、心を打たれた。
「偶然ですね。まさか同じ症状の方がいらっしゃるなんて夢にも思いませんでした。」
 彼女は仲間意識が芽生えたのか、愛想良く振舞ってくる。
「私の名前は山田千賀子と言います。……もっとも、名前だってベッドの名札でわかっただけで、実際は何も憶えていないんですけどね」
「じゃあ、僕の場合だと鈴木仁志ってことになるのかな」
 僕はベッドの名札を指で沿いながら、冗談のつもりで答えた。彼女は笑った。記憶を無くしたからだろうか、僕も彼女もその笑顔には純真そのものが映しだされていた。暫しやわらかな会話を楽しんだ後、彼女はふと立ち上がって窓の外にある緑の鮮やかな森を眺めながら僕に聞こえる声で呟いた。
「私、信じてるんです。いつか自分を知ってる人が迎えに来て、きっと家に帰れるって」
 彼女の淡い願望に僕はたまらなく切なくなり、涙腺が熱くなった。そして、帰れるよと励まそうとした瞬間、ある疑問が僕の脳裏をスーッと過ぎった。家族は僕を見つけてくれるだろうか。その時には自分を連れて帰ってくれるだろうか。いや、連れられてどうなる。記憶も無くなったのに僕自身家族を受け入れられるのか。様々な心配が、家族というワードを引き金に積み重なってきた。しかし、今その心配が何か効果をもたらすわけでもない。僕は今存在している千賀子との触れ合いを楽しめればそれでいい。
 僕が意識をとりもどしてから入院生活一週間が過ぎようとしていた。僕はすでに点滴器具を外し薬による治療が主とされ、千賀子も頭の包帯が無くなっていた。それどころか、初めて逢ったときよりも頬がふっくらとして健康的な顔色を見せるようになっていた。やはり同じ境遇だからか、一緒にいる時は記憶の無い不安も随分と安らいだ。テレビ、雑誌などで知り得た情報での世間話や、患者同士で広まっていく噂話など僕と千賀子の会話は尽きることも無く、笑いも絶えなかった。
「鈴木さん、看護婦さんがリンゴ剥いてくれたからおすそわけ」
 一切れだけ食べたのだろう。少し空いた部分のあるリンゴの皿を差し出され、僕はそれに応えるように手で摘んだ。シャリッとした音が病室内に響き渡り、それを見た彼女もりんごをひとつ口に運ぶ。
「私達、随分と噂になってるみたい」
 身を乗り出し楽しげに語り出した千賀子に、僕は何の事かと首を傾げた。
「ヒトの病状を噂にする不届き者がいるっていうのかい?」
「そうじゃなくて、あまり仲が良いから恋人同士なんじゃないかって」
 千賀子は少し照れながら嬉しそうに頬を赤らめる。僕はと言うと恥ずかしい事だが、慣れない女性の冗談に冷や汗が吹き出た。そんな様子に千賀子は指をさして笑うのだ。千賀子は近頃僕に対しての悪戯心が芽生えたらしく、そんな子供じみた悪戯も心が清らかだからこそ出来るものだと、私も微笑を浮かべた。
「その時計」
 彼女が指差した僕の手首に視線を移した。僕の手首には確かに時計が巻いてあり、(無論この時計の事さえも記憶には無いが)これがどうかしたかと言わんばかりに僕は彼女に向かって首を傾げた。彼女は満面の笑みで答える。
「それ、私も持っているんです。ほら」
 彼女の見せた時計は、僕のものとまさしく姿形が同じだった。同じく記憶喪失となり、同じ時計を持ちながら、ここまで話も合うのも逆に奇妙に思えた。
「色んなところでペアルックなんだな。僕達は」
「これじゃ皆が噂するのも無理ないわね」
 僕は鼻で笑った。もっとも、彼女の台詞に反応を見せるだけで意味は特に無かった。
 皆が噂するような恋人同士でも構わない。単なる冗談であって千賀子がそのつもりでなくても、僕の心は千賀子に大きく占められてしまったようだった。それと同時に、千賀子が以前どんな人生を歩んでいたのかなど、自分自身への関心よりも千賀子への関心が日に日に強くなっていった。

 ある日暮れ、僕は廊下で担当の医師と二人の男を見かけた。彼らは休憩室へと姿を消していったのだ。僕は何気ない思いで休憩室に耳を傾けた。医師の声がする。
「鈴木さんと山田さんの容態は順調に回復しておりますよ。」
「では、そろそろ事情を聴く事も可能ですか?」
 事情? 何の事だ。僕は首を傾げた。僕と千賀子に聞くような事などあるのか。
「彼らは現金強奪事件の主犯である事に間違いはありません。その証拠に彼らは検問の際に慌てて車で逃走した。我々警察は彼らに事情を聞く義務があります。」
 ゲンキン、ゴウダツ……?
 
 
 僕の記憶が囁いた。
 お前の名前は鈴木仁志だ。そして、親しみを覚えた山田千賀子もお前にとっては他人じゃない。確かにそう聞こえた。
 その時、全ての記憶が蘇ったのだ。皮肉な事に、溢れ出るのは真っ黒な不安ばかりである。形容し難いが決して良いものじゃない。僕は思わず壁を背にうずくまり、息遣いも荒くなっている。両手を見ると、小刻みに震えているのがわかる。
 あの夜の出来事を思い出した。僕が記憶を失くした原因となったあの出来事を。
 僕と千賀子は以前から同棲しており、僕はギャンブルに明け暮れて千賀子もカードによる借金で手に負えない状態となっていた。まさにどん底の生活。そんな時大学時代のサークル仲間と僕ら二人で計画したのが現金強奪という犯罪だった。僕達の犯罪は完璧に遂行できるはずだった。あの検問さえ無ければ……!
 僕達は車で警察の追走を吹っ切ろうとした。しかし、運の悪い事に車はガス欠で息を切らし、いちかばちかで僕と千賀子は自分達の足で走ってまで警察から逃れようとした。
 パトカーの光が無数に在った。僕達は汗だくになって光の作る陰の部分を見つけながら走っていた。
 喉が渇いた。水が飲みたい。走る事で目まぐるしく変わる暗い景色の中、僕の思考は自分でも数えられないくらいの様々な思いで渦を巻き、対向車線のトラックの大きな騒音と共に光に包まれた。このままではどちらも轢かれてしまう。そう咄嗟に感じた僕は千賀子の背中を強く押し、千賀子の命だけでも助かるように最善を尽くしたつもりだった。
 僕は乞うように叫ぶ。
「逃げろ! ……早く!」
 
 
「とにかく、明日にでも二人には事情を話してもらう事にしますよ。いいですね? 先生」
 僕の空白の記憶が全て再生され終えた時、医師と警察が話している場景へと戻ってきた。意外にも簡単に戻ってきた記憶は、僕にとって死よりも残酷な知らせだった。空白であった方がどんなに良かった事だろう。何より千賀子にとってそれはどれだけの衝撃を与えるか。自分だけならばまだしもあの純白の心を持った千賀子にまで、酷い現実を突きつける事がどんなに恐ろしい事か。僕の頭は異常なまでに高速で働いていた。
 後悔している暇は無い。僕は病院の廊下を全速力で走り抜き、病室のベッドでうとうとと幸せそうに横になっている千賀子を起こした。僕の気迫は彼女の眠気を一気に消し去ったのか、彼女は眼を丸くさせる。そんな彼女の様子にお構いなく僕は、薄い患者服で身を包んでいる彼女に外出用の厚めのコートを着させた。
「どうしたの……? まだ私達、病院出れないのに」
「君は言ったろう。いつか自分を知ってる人が迎えに来て、きっと家に帰れる……と」
 僕は千賀子の手を強引に掴み、廊下を歩いている看護士さんに走るなと注意されながらも病院の外へと駆け抜けた。そう、ちょうど追われているあの状況と同じだった。違うとするならば、千賀子はあまりにも無垢で純粋になってしまった事。それだけだった。
「僕は君を知っている。帰ろう」
 僕は全てを知った途端、心が闇に包まれた。しかし未だ何も知らない千賀子にだけは、その白さのまま人生を歩ませてあげたい。憶えの無い事情を説明し、千賀子を悔いの念で不幸にする権利が警察にあるものか。
 思えば、常にいい加減に他人の気持ちも考えずに生きてきた僕が、彼女の心を堕落させたといっても良い。その罪滅ぼしという意味も、この行動には籠められていたのだろう。
 僕の言葉は彼女の心を納得させられたのかは判らないが、考える事、そして行動する事に必死な表情で見つめる僕に対し常に優しげな笑顔を見せていた。僕は"偶然にも"同じく記憶喪失になってしまった彼女に、精一杯微笑み返した。
 患者服の二人は沈みかける真っ赤な夕日が明るく照らす森へと、その存在を消した。
 僕は重く悲しい残酷な現実を背負い、そして無垢な女は儚いが極めて純粋な希望を抱えて。

――了――




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