私は疲れ果てていた。それも身体的な疲労ではなく精神的な疲労である。仕事をしていれば精神的なプレッシャーも多少は生じると思い、長らく気にはしていなかった。しかし徐々にその楽観は否定され、最近では毎晩のごとく夢にうなされ、体温が上がったまま下がらないといった身体にまで病んだ精神が表面化してきたのであった。このままでは仕事に差支えが出る、そう思った私は上司に自分の状況について、相談を持ちかけてみた。 その上司は部下に対して理解のある人物であり、仕事のノウハウを形式ばったものではなく、自分の経験を踏まえて、事細かに説明してくれた私の仕事の上での師である。 私の突然の相談に上司は暫く沈黙を保つと、静かに口を開いた。 「どうだね、一度心理カウンセリングにあたってみないか」 正直に打ち明けよう。実のところ、私はカウンセリングというものに、信用を置くべき価値を今まで見出せなかった人間である。大体にして他人の傷を見つけたところでそれを癒す事など出来るのか。もしや、宗教の勧誘や精神安定剤の処方で心に偽りのゆとりを無理矢理作らされるのではあるまいか。沢山の不安が頭を過ぎったが、何よりこの状況を打破しなければ仕事に復帰できない事もあり、私は上司の勧めどおりにカウンセラーの元を訪ねた。 上司の勧めてくれたクリニックは、私の通勤ルートである駅前の近くにあった。いつもは何気なく通る道だが、今日は新たな経験をするという不安で、足取りはいくらか重かった。高校生の道を歩く姿が多いのは夕方だからか、朝と街灯の照らす夜の場景しか知らない私は、この道の新たな顔を知った。 ガチャン。 クリニックの入り口の扉を開く。外からみた静粛な雰囲気とは裏腹に、結構な数の患者を待合室に抱えていた。私は受付に初診である事を告げ、事細かに個人情報を記入した後、待合室の長椅子に腰をかけた。 待合室独特の静けさに包まれた後、私はふと同じく長椅子に座っている隣人が気になった。女性だった。長い髪であまり顔は見えないが、おそらく二十代であろう。私が観察をしていると、その女性の口が急に小さく開いた。 「あなたは……」 てっきり妙な人物だと批判されるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。静かでおっとりとした口調で尋ねられた。 「はい」 「あなたは……なぜ、このような場所にいるのですか?」 どうやら私の症状を聞いている、と判断した私は、少し恥を心得た気持ちで自分の精神的な苦痛を彼女に打ち明けた。仕事がどれだけ自分自身にプレッシャーを与えてきたか、また自らが高学歴であったから、皆の期待に応えねばならないと、妙な義務を自分に与えていたこと、何より今までの自己の実現が自分にとって重荷でしかならなかったことを、彼女も同じ待合室で診察を待つ患者である事を忘れて私は告白し続けた。彼女は私の目を見ながら黙って頷いている。 なぜだろう。私は不思議な気分だった。よくは説明できないが、今まで仕事という圧力で塞がっていた自分の内面が噴きあふれた感覚である。それと同時に胸の中がスーッと晴れていくのを感じる。 「やはり私は今の仕事から身を引いた方が良いのかも知れませんね。」 私は冗談をまじえたつもりで笑いながら、喋り続けた。彼女は私の言葉に応える。彼女の瞳は一貫として私を見つめていた。 「……他にやりたい仕事は?」 彼女の言葉に私は頷き、私が子供時代に、純粋な憧れをもって夢見た職業を言ってみた。私の夢見た職業は小説家であった。子供の頃に図書館で借り夢中になって読んだ「江戸川乱歩シリーズ」がきっかけである。 私が熱心に、小説家という今となっては実現できそうも無い夢を語った時、彼女ははじめて微笑んだ。 この女性は心底嬉しそうに笑顔を見せた。 「あなたはここにいるべきではありません。あなたは…すでに解決の方法を見つけていたじゃないですか」 確かにそうだ。私の独りよがりな告白は、私の行くべき方向を導いていたのだった。もしかしたら、気付かないふりをしていただけで方向はすでに定まっていたのかも知れない。 私は彼女の症状も尋ねた。本来ならば聞いてはいけない事なのだろうが、自分の開き直った気持ちを、何とかその女性にも経験させたかったのだ。 その時。 「篠原千絵さん。診察室の方へどうぞ」 受付から呼び出しの声が聞こえた。篠原千絵と呼ばれた、この私の隣の女性は申し訳無さそうに私に一礼し、診察室へ消えていった。 一体彼女がどのような悩みを抱えていたのか、結局わからずに終わった。 後日、私は篠原千絵という名を目にする機会があった。その機会は書店の角で一冊の本にふと見た時であり、予想もしなかった驚きを伴った。なんと篠原千絵は腕の良いカウンセラーと評価されており、心理学教授としても著名な人物であった。 私は驚きを隠せないまま、彼女の著書の中身をペラペラと覗いてみた。 「相手の話をとにかく親身になって聞き、いかに相手が話しやすい環境を作るかが大切なのです」 「真に心を癒す事は、カウンセラーが傷を探り出す事ではなく、ひたすら相手から答えが生じるのを待つ事です」 どうやら、私はその女性に上手く"治療"されていたようだ。彼女があのクリニックのカウンセラーと知った時、現代のカウンセリング技術が私の想像を遥かに凌駕していると知った時、私の手は無意識に、彼女の本を書店のレジにて渡していた。 その時の不思議な経験を、小説家と自らに銘打った今、ここに綴ろうと考えた次第である。 ――了―― |