後頭部にえぐるような鋭い痛み――(これは何……?)志村春香は、前方に倒れこんだ。地面の土の匂いと、強烈な血の匂いが彼女の嗅覚を狂わせる。彼女の意識は朦朧としていた。自分をそんな状態へと陥れた"人間"を一目でも見ようと、うつ伏せの体を仰向けにしようとする。 そこで発せられた第二撃。全く同じ場所にさっきよりも強い刺激。(もうダメ、殺される……)今にも停止しそうな思考回路を必死に動かした。その時――先程よりも強烈な血の匂いと共に、花のような――甘い匂いが春香の鼻孔を擽った。 (香水……?) 全身に響き渡るような鈍い音と共に、何か硬いもので頭を幾度となく殴られ、しだいに痛みすら失っていく。やがて、春香の呼吸は止まった。自慢だった黒髪は頭の血で真っ赤になり、眼には涙を浮かべながらも、瞳に生気はない。ただ土に頬をつけながら、虚ろな表情で己の不幸を呪っていた。 翌日、私立Y**高校で「志村春香が殺された」というニュースは、一時間目から放課後まで生徒の興味を尽く惹きつけた。彼女は、Y**高校の三年C組の生徒であり、授業の参加も積極的で、学級の代表を務めていた模範的な学生であった。 そしてそれは半ば必然として、彼女のクラスメイトであり、恋仲であった鈴木卓也に注目がいった。卓也は、毎日同じような質問を受け、正直辟易していたところだった。 「おう、大変だったな」 早津俊平は、卓也の机の隣で弁当を広げた。 「お前も俺を慰めるのか」 卓也が溜息混じりに、親友である早津をじっと見据えた。 「そうじゃない。ただ、毎日おんなじこと聞かれて大変だなってよ」 「まあな」 卓也はコンビニの袋からパンと紅茶を取り出すと、ストローを紙パックに突き立てた。 確かにこのところ注目され過ぎて、疲労が限界に来ている。かと言って、ぞんざいに答えたりするならば「彼女が死んで何とも思わないのか」と、まるで人間でないかのような扱いを受けてしまう。 春香の葬式では、まるで"恋人を失った悲劇のヒーロー"のように見られる。春香への悲しみよりも、むしろそういった興味のほうが、何も知らない連中は強いのではないか。まるで春香の死を踏みにじっている。彼らの好奇心は無慮過ぎる。 卓也の気がもう少し短かったならば、きっと葬式中にも関わらず大声で叱咤していたことだろう。 「しかし、殺人事件なんだってな」 「そう、みたいだな」 卓也はパンを一口かじった。すっかり気を許している早津に対しては、たとえ事件のことを聞かれても怒りなど沸き起こらないし、むしろ親友にだけはこの事態を相談したい。 「犯人、早く見つかるといいな」 「うん」 早津が卓也の肩を叩いた。あっさりしている。けれど、それがいいところだと卓也は思っている。過ぎた干渉が無いのは、卓也にとってやりやすかったし、それが一番の救いだった。 殺人事件だと聞かされても、教師は「下校中は気をつけるように」と注意を促すだけだった。おそらく、学校側にも捜査状況は聞かされていないのだろう。卓也は、不思議と自分で動く気にはならなかった。――警察が何とかしてくれる。あっちは捜査のプロなんだから――と。それがドライというか、彼女に対する愛情が欠けているなど、批判を浴びることも少なくなかった。 卓也が耳にした事件の情報を述べよう。事件は、五月十二日の午後九時に近隣の東山公園で起こった。彼女の死体が発見されたのは、その日の午後十時頃。夜警をしていた巡査が見つけたようだ。後頭部を殴打された撲殺と見ているが、肝心の凶器が発見されていない。その強度から見て、公園に積まれていた鉄パイプを使ったものだろう――というのは警察の見解だ。 学校側は、朝会で「変質者の仕業だ」としきりに言っていた。 しかし、卓也には疑問があった。それは"なぜそんな時間に、春香が公園にいたのか"である。あまり夜遊びなどしない春香としては、少し考えられない行動ではあったから、多少の違和感が生じた。 「おい」 早津の顔が視界全体を支配していた。どうやら、卓也は一瞬沈黙していたようだった。卓也はハッと気づくと、早津に向かって小さく笑った。早津は溜息をもらして、 「お前疲れてんじゃねぇの。休んだほうがいいぜ」 「そうだろうな。周りのやつらだけじゃなくて、先生たちも俺に興味津々みたいだ」 早津は笑った。そして、卓也も笑った。 その時、チャイムが鳴り響いた。午後の授業の始まる合図であった。午後は世界史の授業であり、その担当である湊谷先生は遅刻の常習犯である。しかし、終始おどけた様子で、授業中の話の脱線も多く、多くの生徒に慕われていた。 扉が開いた。先生が来たようだ。 「ああ、ごめんごめん。また遅れちゃったね。最近は『遅刻を無くそうキャンペーン』なんてやっているけど、僕が真っ先に目ぇつけられちゃうよ」 先生はぽりぽりと後ろ髪を掻きながら、困り顔で笑った。当然、生徒達もくすくすと笑い声を響かせた。 「ええと、今日は主権国家体制からだったね。さて、教科書を開こう。……ありゃ、しまった。教科書忘れたなあ」 小さかった生徒の笑い声が、どっと頂点を迎えた。 掃除を終え、皆が下校し始めた。教室の窓には西からの斜陽が降り注ぎ、烏がカアカアと大きな声で鳴いている。 卓也は鞄の留め金をパチンと締めると、ゆっくりとした足取りで教室から出た。早津はバスケ部に所属しており、一方卓也は部活に所属していない。当然、下校となるとなかなか一緒する機会はないわけだ。 「お兄ちゃん」 卓也は聞き馴染みのある声に振り向いた。卓也の妹である麻衣(今年で高校一年生である)であった。そして、隣にいるのは――おそらく、友達であろう。緊張した面持ちで、その少女は卓也にぺこりと頭を下げた。 そんな友達の緊張を気に掛けず、麻衣は卓也に微笑みかける。 「今、帰り?」 「ああ、そうだよ」 「勉強しなくていいの?」 「なんで」 「だって、お兄ちゃんってば受験生だし」 他の三年生はみんな図書館に入り浸ってるよ、と言わんばかりの妹の忠告であった。卓也は眉をしかめて、 「余計なお世話だよ」 「あの、鈴木さん……?」 麻衣の友達が、この場で初めて声を発した。おそらく麻衣に卓也を紹介してほしいのだろう。麻衣は「あっ」と気づいたように目を丸くすると、慌てて紹介を始めた。 「卓也って言ってね、あたしのお兄ちゃん」 麻衣の友達は、すかさず卓也に視線を移した。そして改めて頭を下げると、 「私、鈴木さんの友達の、京極奈津子っていいます。よろしくおねがいします」 礼儀の正しい子だな、と卓也は思う。顔は、眼鏡をかけており、髪型も真っ黒のストレートで地味な印象を受ける。身長は麻衣と同じくらいであり、校則に違反しないよう、長めのスカートを履いている。 「よろしく」 卓也は、小さく笑みを作った。 「そういえば――あの、三年生の誰かが殺されたって話を聞きましたけど、本当なんですか」 眼鏡の奥で、奈津子の眼がしっかりと卓也を見つめていた。 卓也は後ろ髪をいじると、何拍子か間をおいて、 「そうだよ。俺のクラスの女子で、一応付き合ってたんだ」 「ご、ごめんなさい……変なこと聞いて」 人の心の傷をえぐってしまったという罪悪感が、彼女にひしひしと感じられた。卓也は慌てて「大丈夫だから」と補う。ややどんよりしてきた気まずい空気を、卓也の妹である麻衣は、明るく高い声で躊躇なく破った。 「あっ! あたし、ちょっと先生に呼ばれてるんだよね。ごめんお兄ちゃん、奈津子ちゃん。先に帰ってて」 腕時計を見ながら、慌てて職員室のほうへと向かっていった。 仕方なく取り残された二人は、共に学校の玄関口へと歩く。 「家は近いの?」 「はい、歩いて十分くらいです」 そっか――と口に発したか発していないか、卓也は定かではない。ただ、頷いたことだけは確かだった。 「それにしても」 「うん?」 「卓也さんと、麻衣さんってそっくりですね」 奈津子の眼がきらきらと輝いていた。なんとなく、打ち解けた気持ちが垣間見えた。 「そうかな」 卓也は首を傾げながら、頬を掻く。そんな仕草を奈津子は指差した。 「その仕草も、麻衣さんよくやります」 奈津子の微笑みは穏やかで、無邪気そのものだった。そんな微笑に影響されてか、卓也も自然と顔が緩んでいった。 「今度、勉強教えてください」 「人に教えるほどの余裕なんかないよ」 卓也は苦笑を浮かべてみせる。奈津子は、そんな僅かな動作ですら笑みをつくってくれた。思いのほか気があった二人は、連絡先を交換しようとした。しかし、卓也は自宅に携帯を忘れることが多く、奈津子は丁寧にメモ用紙に連絡先を書いてくれた。 「よろしければ連絡ください」 小さなノックと共に、麻衣は職員室の扉をそっと開いた。それと同時に、彼女を突き刺すような視線が何本も迫ってきた。職員室の雰囲気はこれだから嫌いだ、と麻衣は思う。嫌になるくらいにコーヒー臭い室内の空気と、先生同士が談笑している笑い声。呼ばれてきたと言うのに、迎える気も一切ない。 「あの、湊谷先生はいらっしゃいますか」 麻衣はおそるおそる、近場にいた――教頭先生に尋ねてみた。 教頭先生が無言のまま、ある場所を指差すと、その先で彼女を呼んだ先生が手を振っていた。 「ごめんごめん、急に呼び出しちゃって」 先生は笑いながら、コーヒー飲む?と麻衣に紙コップを差し出してくれた。思えば、この先生は異質である――麻衣も、おそらく生徒全員が感じていることだろう。 しかし、何か裏がありそうだ。天真爛漫に振舞っている麻衣も、その裏腹に、人に対する猜疑心は人一倍強かった。以前、自分の好きな男が、他の女性と付き合っていたところを目撃し、彼女は心の中で激怒した。それと同時に、人間に備わっている"裏の部分"というものを初めて知った。 「あれ、緊張してるのかな? いいよいいよ、大したこと聞かないからさ」 湊谷先生は警戒を解くように微笑んだ。そして、彼はこほんと咳払いをすると 「君は知ってるかい? 三年生の志村春香さんが公園で殺されたって話」 「知ってます」 麻衣は小さく頷いた。それを聞いた湊谷も満足そうに頷いて、 「ふん、そうだろうね。君はなにかそのことについて聞いてないかな」 「何でですか」 「君のお兄さんは、春香さんと付き合っていたと噂で聞いたからさ」 「知りません。そんな話」 麻衣はぴしゃっと言いのけた。明らかな態度の変化に、これには湊谷も目を丸くする。 「知らない――か。それはつまり、春香さんと卓也君の関係も知らなかったってことかな」 「何で私にそんな話をするんですか。お兄ちゃんに聞けばいいのに!」 いよいよ、麻衣は顔を震わせて激昂した。湊谷はゆっくりと目を瞑って、二度三度軽く頷くと、 「そうだね、その通りだ。こんな尋問紛いなことをして悪かった。ありがとう、帰ってもいいよ」 麻衣は「さようなら」と荒げた声で言い捨てると、ずんずんと強い足取りで職員室への出口に向かい――バンッ!と大きく扉を閉める音を響かせた。 「こりゃ嫌われたかなあ」 湊谷は、後ろ頭を掻きながら苦笑を浮かべて、一口コーヒーを啜った。 「卓也さん」 ある日、鈴木卓也の耳にその言葉が聞こえてきたのは、彼が非常玄関口でパンをかじっていた時だった。京極奈津子だった。 「お昼ごはん、ですか」 卓也は軽く一度頷いた。彼女の中で卓也への警戒心はすっかり消えうせたようだった。その表れとして、奈津子は卓也の隣に座る。 「あの、以前……私、卓也さんを傷つけるようなこと言いましたよね」 卓也はとぼけてみせた。恋人に死なれたことは悲しいことだが、他人に蒸し返されるべきものでもない。そんな卓也の心情を理解しているかのように、奈津子は頷いて、 「私……犯人はきっと見つかると思います」 なぜだろう。彼女の言葉は卓也の中に重く響いた。それは決して悪い意味ではない。今までのような奴らの"好奇心を内に秘めた"表面的な慰めでなく、まるで彼女は本当に春香の死を悼み、卓也の悲しみを癒しているようだった。 ふと気がつくと、卓也は彼女を抱きしめていた。まだ春香への愛は残っている――はずなのに、卓也は春香ではない女性に身を預けていた。 「卓也、さん……」 「ごめんな、ごめん」 奈津子は棒立ちになった。彼女の全身が強く硬直していくのが、卓也もわかった。そして、そっと奈津子の手が卓也の背中に――移った。 「大丈夫ですから」 ふと、奈津子の首もとから、"花の香り"が卓也の鼻孔に侵入した。それは、どこか懐かしい香りだった。(あれは小さい頃の……)卓也はハッと気づくと、奈津子の身体から手を離した。 「ホントにごめんな」 「いいえ、卓也さんは春香さんが亡くなられて悲しんでいますから、仕方ありません」 奈津子は、前方で両手を合わせながら、屈託のない笑顔で笑った。 すると、学校全体に響き渡る高音――チャイムが鳴っている。 「お、もう午後の授業だ」 「じゃ、さようなら」 「さようなら」 挨拶を終えるか終えないかのところで卓也は駆けだした。午後の授業は、遅刻に厳しい数学の安斉先生であったからだった。 奈津子は、そんな卓也の背中を見届け、ふうっと一つ溜息をする。非常玄関口をくるりと回って校舎内へと入ろうとした――その時だった。 奈津子の首にロープがふわっと被さり、そのまま一気に首を締めあげる。 「かはっ……!」 一瞬、何が起こったか分からなかった。何かの悪戯かとさえ思った。しかし――しかし、これは違う。本物だ。自分は殺される――そう実感した。 咳きこむような苦しさと、酸素が体内に届かぬ息苦しさで、次第に視界が朦朧としていく。(誰……?)奈津子は自分の首に巻きついたロープを必死で引っ張って気道が確保できるようにするが、静脈を押しこまれている為に思うように力が出ない。(春香さんを殺した犯人……?) あまりの苦悶から、奈津子の口から舌が飛び出てきた。(もうダメ……)そして、手が小さく震えだし、抵抗の力が徐々に……徐々に弱まってきた。 「やめろっ!」 遠く――とても遠くから、奈津子の眼がぴしゃっと覚めるような言葉が聞こえた。 それと同時に首の圧迫感が無くなった。奈津子の視点がぐるりぐるりとゆっくり廻って、まるで全体がぼやけた世界のように、平衡感覚を失い、ついに地に伏した。(誰かが……助けに来てくれた?)ぼやけた視界が次第に鮮明に映る。蒼白な顔で、目を見開いた表情の湊谷先生がそこにいた。 「大丈夫か!?」 彼の荒げた呼吸の度に、コーヒーの匂いの微かに香る吐息が、奈津子の鼻を刺激した。 「……先、生」 湊谷が倒れこんだ奈津子の背を支えあげ、安堵の一息を吐いた。 「いやあ、無事で良かった。とりあえず、保健室に行こう」 「犯、人……」 「そのことはまだいい。後で聞こう。今は君の身体を第一に考えるんだ。立てるかい?」 ふらふらとした足取りで、奈津子は湊谷に連れられて保健室へと向かった。 午後七時半、鈴木卓也の宅にて。今日は両親とも仕事の都合で外泊してくるとのことだった。麻衣はソファに座り、ゆったりとチョコレートを食べている。両親がいないだけでずいぶん自宅は静かになるものだな、と卓也は思う。 「お兄ちゃん、食べる?」 妹の麻衣が卓也にチョコレートを差し出すと、卓也は「サンキュ」と礼を告げて一つもらった。その時、机の上に置いていた卓也の携帯が鳴った。 着信――京極奈津子。 卓也は携帯をひょいと取り上げると、通話ボタンを押しながら、自分の部屋へと向かった。 「はい、俺です」 「鈴木君かい? ごめん、湊谷だ。奈津子さんの携帯電話からだけど、許してくれ」 「……先生?」 「ああ、今日奈津子くんが襲われてね。おそらく春香くんを殺した犯人と同一人物だろう。なに、心配は要らないさ。彼女は保健室で安静にしているよ」 卓也の心はすっと縮みあがった。自分の周囲にいる人間が、殺されていくのはもう耐えられなかった。犯人は、春香に奈津子、この二人に対してどんな憎悪があったろう。あのような優しさを見せられる女性を、どうして殺そうとするのだろうか。卓也は――犯人の殺人を犯す意味が全く理解できなかった。 だからこそ、困惑もする。自分の周囲の人間が、いとも簡単に命を奪われゆくこの状況を。 卓也は自分の部屋にたどりつくと、部屋の鍵をかけて椅子に腰かける。そして、少しの間ゆっくりと心を落ち着けて、会話の沈黙を破った。 「先生」 「うん」 「犯人は……誰ですか」 この問いには、流石に湊谷も戸惑いを見せたようだった。 「奈津子君が、妙なことを教えてくれた。彼女がこれを君に教えてくれと言われたから、電話したってこともあるんだ。匂い――のことだ」 「匂い?」 卓也が言い返した時だった。部屋の戸にノックの音が響いた。 「お兄ちゃん?」 のんびりとした高い声。当然の如く、扉の向こうにいるのは麻衣だった。 「鈴木君、聞いてるかい?」 「ああ、はい。……匂いとはなんですか」 「うん、犯人に殺されかけた時に、自分が使っていた香水と同じ匂いがしたっていうんだ。一応警察にはその事も含めて連絡したが」 「同じ、香水?」 「そうだ。具体的にはラベンダーの香りらしい。それは――奈津子さん自身が、君の」 「お兄ちゃん?」 「――君の妹の」 「お兄ちゃんってば」 麻衣のノックの音が強まった。コンコンといった軽快な音から、ドンドンと部屋全体に響き渡るような強いものへと変わった。 次第に、卓也の顔は青ざめてきた。まさか――そんな。耳から離した携帯電話から、湊谷先生の声が微かに聞こえる 「もちろん、偶然の可能性だってある。だから断定はできないが」 「お兄ちゃん、開けて」 まさか――まさか、まさか。卓也はゆっくりと慎重に扉の前に進んだ。 「麻衣」 「開けて」 「お前が、やったのか。」 聞こえるか聞こえないかくらいの弱弱しい声で、卓也は扉の向こうの妹へと尋ねた。 ――君の妹の麻衣さんに、つけてもらったらしいんだ。 「開けて、お願いだから」 麻衣の声は恐ろしいくらいに、いつもと変わらなかった。しかし――その平常は、ある一時を越えて激しく豹変した。まるで妹の体力とは思えないほど、激しい、無遠慮な扉への攻撃が開始された。それに伴って、木製の扉はみしっ、みしっと悲鳴をあげている。 「お前が殺したのか。春香を。お前の友達の奈津子も殺そうとした」 麻衣の扉への"暴力"が収まった。しばしの間が、深い深い沈黙を作りだした。 「そうだよ」 麻衣の口調は、相変わらず普段と変わらない。 「何でだ」 卓也には理解できなかった。春香はともかく、奈津子は麻衣の親友だった。それをなぜ殺そうとするのか。昔から見知っている妹が、一体いつ――どこでそんな狂気に惑わされたのか。それらをすべて問い詰めるかの如く、切実にその返答を願った。 「二人とも……あたしのお兄ちゃん、奪ったから」 いよいよ卓也は頭が壊れそうになった。フローリングに直に着いた裸足は、あまりの硬直に痺れを覚えてきたようだ。兄に対しての妹の愛は、男に対しての女の愛とはまったく重ならないものだと卓也は考えていた。 近親思慕。そんなことが妹の心中で起こっていたなんて、今まで想像すらしなかったことだ。 「特に春香さん――あの女はずっと、どうしようか迷ってたんだ」 あの女、という言葉に、深い憎悪が籠っているように聞こえた。先程まで、近所まで響き渡りそうなほど、扉を叩く音を響かせていただけに、その静寂の中に聞こえる妹の言葉はひどく重々しく――悪く言うならば、不気味に聞こえる。 「でも、あの日。お兄ちゃんの名前を使って、靴箱に手紙を入れといたら、あの女ってば本当に公園に来たんだよ」 麻衣は、可笑しそうにケタケタと笑った。狂っている――まさかここまで、妹の精神が蝕まれているとは。自分の妹だけに、卓也の受けた衝撃は相当なものである。 「後ろから、鉄パイプでぽかっぽかっとしたら、死んじゃった。おかげで鉄パイプが血まみれになっちゃって」 卓也の脳内に、それが生々しく再現される。血が飛び散っても、憎悪に包まれた麻衣は何も感じないのだろう。春香がたとえ涙を見せても、淡々と死ぬまで殴り続けたのだろう。 ――何という凄惨な場面だ。 一気に卓也の全身の力が抜け、顔を両手で覆って咽び泣きながら、膝をついた。 「そしたら、今度は奈津子ちゃんがお兄ちゃんに近づいちゃった。でも、おんなじことだと思って」 クスクスと小さく笑い始めた。まるで小さい子が悪戯をしでかしたような笑み。人を殺すという行為を、悪戯ごときにしか考えていない。 「ねえ、開けて。お兄ちゃんに逢いたい。開けて、開けて」 ドン、ドン、と重みのある音が扉にて再発した。ここで開ければ――卓也は考える。俺はどうなってしまうのだろう、と。得体の知れない恐怖心が、卓也の全身を強張らせた。しかし、一方ではそんな妹の心を救いたい、庇護したいという、"あくまで兄としての"思いがあることも事実であった。 こんなにも無邪気に、ただ兄への愛の為だけに、殺人を犯した妹。 (俺はどうすればいい……。どうすれば、いいんだ……) 「ダメだな。繋がってはいるんだが、鈴木君の声が聞こえてこない」 湊谷は、通話を切ると、その携帯電話を持ち主のもとに返した。 すっかりと元気を取り戻した奈津子は、保健室の白いベッドに座って、湊谷を見上げた。保健室に設置された大きな二つの窓から、もう真っ暗となった闇夜が見える。普段は喧騒が絶え間ない校舎も、夜は恐怖を掻き立てるほどの沈黙を保っている。 「湊谷先生は……本当に、麻衣さんが犯人だと思いますか」 湊谷は眉を顰めて、口を開いた。教え子を事件の犯人として告発するのは――教師として、許されるのだろうか。職務と正義の狭間に生じる違和感を覚えていた。 「ああ、うん。職員室に呼び出したときに、僕は鈴木君と春香さんの接点を尋ねてみたんだ。あの時彼女は、妹に聞き出すという回りくどい僕の行動に、激怒していたのだと納得していたんだが、実際はそうじゃなかった」 湊谷はジャケットを羽織って、車のキーがポケットにあることを確認した。 「彼女が激怒していたのは、僕に対してじゃなく、"鈴木君と春香さんの関係自体"だったんだ」 キーの金属音をチャリチャリと鳴らしながら、湊谷は奈津子に背を向ける。 「そんな……そんなことって」 「うん、僕も半信半疑だよ。まさか兄妹で――ただ、君の香水の話を聞いた時には、そのバカバカしい仮定から逃れられなくなった」 湊谷は保健室の扉を開いた。 「行こうか、鈴木君のお宅に。何やら妙な予感がするからね」 「ねえ、お兄ちゃん。しょうがないからドア壊しちゃうよ」 未だ扉の前で佇んでいた卓也は、眼には見えない麻衣の姿に、心底恐怖心を抱いていた。 そんな状況の中で、麻衣は行動に出た。ひたひたとした裸足特有の足音が、微かに聞こえた。麻衣は階段を降りたようだった。 麻衣は何をするつもりなのだろう。一時の平穏の中でも、卓也の漠然とした焦燥と不安が消え去ることは無かった。麻衣の足音が聞こえた。それと同時にカランカランと妙な金属音が響く。麻衣が何かを持ってきたということは、流石に半ば頭が真っ白な卓也も理解できた。 その時、麻衣の狂気は最高潮に達した。ガンッ、ガンッ、と乱暴に木製の扉を鉄の棒か何かで叩き始めたのだった。麻衣はそれを思いっきり振り回し、扉めがけて遠慮なく叩く――そんな姿を卓也は想像する。鬼や悪魔という言葉では陳腐過ぎるような、恐怖。 次第に、扉の中央の木材が剥げ、小さな穴が出来た。 「お兄ちゃん」 空いた穴からうっすらと見えるのは、間違い無く麻衣の"目"だった。 「もう少しだからね、待っててね」 何が起こったんだ。卓也は頭を抱えた。ついさっきまでは、普通の妹だったのに。たわいもない日常だったのに。それがどうしてこんな状況になる。 もう夜も更けてきたというのに、無遠慮に暴力的な音を響き渡り、小さな穴が次第に大きくなっていく。 その穴から見えるのは、もはや麻衣の"目"だけではない。"顔"全てとなっていた。それは兄にやっと会えるという気持ちによるものだろうか、うっすらと微笑んでいた。それは紛れもなく妹の顔であった。いつも見る顔だった。だが、暗い廊下からぼんやりと映し出された笑顔――それは、卓也の恐怖心を煽るのに一役買っていた。 ついに扉を金属の棒が貫通した。 (ああ……これは……) 卓也は絶句した。この棒には"血が付いている"のだ。血が付いた鉄パイプ――卓也は瞬く間に理解する。これはまさしく"春香を殺すために用いられた"鉄パイプだ。 「ここだな」 ブルーバードがある家の前に止まった。湊谷と京極奈津子は、生徒名簿の通学路を頼りに、鈴木卓也と鈴木麻衣の家に到着したのだった。 その家は、"ひどく静かで"、外から見る限りでは電気は全くついていない。 「君は待っていてくれるかい」 後ろに乗り合わせている京極奈津子は、不安からか全身を震わせていた。湊谷はそんな彼女を安心させるように微笑むと、一人で鈴木宅へと向かった。 ――了―― |